子どものころに見たロープシンの「蒼ざめた馬」は不思議な魅力がありました。
「蒼ざめた馬」が本棚の一番下にありました。
いや、ロープシンのテロリストの物語に魅力を感じたのではなく、そのタイトルにです。
タイトルはヨハネの黙示録の一節です。
「われ見(み)しに、視(み)よ、青ざめたる馬あり、之に乘る者の名を死といひ、陰府(よみ)これに隨(したが)ふ。」(ヨハネの黙示録6:8)(ルビは引用者)
*現代語訳ですと味気ないので、あえて古い訳を使います。
当時「蒼ざめた馬を見よ、之に乗るものは死なり、陰府(よみ)これに隨(したが)ふ」と、何度も口ずさんでいました。
ゴール設定や現状や認識ということを考えるとき、僕はいつもこの一節が頭に響きます。
「見よ、ゴールあり、認識これに従う」というイメージです。
ゴールがあって、その光によって我々は世界を認識しています。
先に世界があって、そこにゴールを見つけるわけではないのです(かつてはそのような世界観でしたが)。
では、ゴールという光が無ければどうなるのでしょう?
世界は闇に落ちます。何も見えなくなり、何も聞こえなくなり、匂いも触感も味もないのです。
クリプキが何が間違っているかと言えば、すべての人が共有する世界があるということだ、と僕は自分の教師から学びました。
世界が先にあり、そこに我々が参入しているのではなく、我々それぞれが宇宙を固有に持っていて、その宇宙と宇宙が重ねる点のことを仮に物理宇宙と要請しているのです。
2つの球体が接触するとき、その接点はもちろん点です。そこが物理宇宙です。
ですから物理宇宙はあると言えばありますが、無いと言えばありません。
あるのはそれぞれの独立した宇宙だけだからです。しかし触れている点はある以上はあるとも言えます。
そしてその宇宙は認識が先であり、認識によって存在します。
観測によって生じるというプリンシプルを最初に認めたのは、それを最も認めたくなかったであろう物理学者たちでした。
ファインマンが「量子力学の真髄」と言った「光子の二重スリット実験」です。
これはまさに「観測によって生じる宇宙」を示しています。同じ実験なのに、観測の有無によって物理現象が変わるのです。
では何を認識するのか、何を観測するのかは何が決めるのでしょう。
重要性が決めます。
言い換えれば、ゴールが決めます。
これを体感するきわめてシンプルで強力なテストがあります。
スコトーマ実験と呼ばれています。
目をつぶって、いま自分がいる空間の中にいる「赤いもの」を数え上げるという有名なテストです。
目をつぶって、記憶の中からいまいる部屋、いまいる場所にある「赤」を探し、そして目を開けます。
そうすると脳は赤いものを探し始めます。その瞬間に目に「赤い存在」が飛び込んできます。
これまで目の前にあって、認識していなかった赤いものが目に飛び込んできます。
これを模式的に考えるとゴールと認識の関係に似ています。
「赤いものを出来る限りすべて数え上げる」というゴールを設定すると、認識が根底から変わるのです。
「赤い」くらいでこれほど世界の認識が変わるのですから、ゴールを設定すると世界は一変します。
芥川龍之介の「藪の中」は世界がそれぞれにとって全く異なることを美しく示しています。
とは言え、もちろん共有される世界があることは事実です。ただその共有される世界、かつて客観的世界と言われたものから始めることができないということを我々は認めるべきです。
目をつぶって、、、、、、と言えば、寺山修司の「くるみ割り人形」を観てきました。
寺山修司のアニメーション映画のためのスクリプトを男装音楽劇に仕立てあげた楽しい作品です。歌あり踊りありで、文字通り極彩色の舞台でした。
素晴らしかったです。
ホフマン、チャイコフスキー、寺山修司という天才たちが楽しそうに舞っているような素晴らしい舞台です。
「目をつぶると見えて、目を開けると消えるもの、、、、、なーんだ」(寺山修司)
クララは「夢」と答えますが、ドロッセルマイヤーはそう考えなかったようです。
我々の理解するところで言えば、夢は目を開けても消えないのです。
むしろ目を開けて見える世界がまさに夢(ゴール)からの写像です。
*31日までです。是非!!!http://eplus.jp/sys/T1U14P002177008P0050001
ネタバレになると嫌なので、公演終了後にまた書きます!!
*小澤征爾のくるみ割り人形です。本当に良いです(TOT)
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視(み)よ、青(あお)ざめたる馬あり、之に乘る者の名を死といひ、陰府(よみ)これに隨ふ。
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