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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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偽アリストテレスの汎神論、ソクラテスの教育論、師弟の階梯

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これまでの「まといのば」のテーマは言うなれば密教であったと思います。これまでというのは、最初からということではなく、ここ数年という程度の意味です。

昨春の陰陽師から始まり(その前から言えばユングの言うアニマ・アニムスも)、アルケミア、カバラ、セフィロト、西洋魔術というテーマで一貫して伝えてきたのは、いわゆる咒(しゅ)であり、密教的思考法と密教的な技術でした。

今月はいわばその集大成であり、そして卒業というか脱皮の時期であろうと思います。


次のフェイズは強いて言えば「イデア」です。
(厳密にはヒュレーとエイドスということになりますが、直感的ではないので「イデア」をとりあえず借りに掲げます)(当然ながら咒の密教気功を包摂していくのが「イデア」ということになります)


*ラファエロの傑作である「アテナイの学堂」の中心に描かれているのがプラトンとアリストテレスです。
プラトンは天上界にイデアがあると考え、頭上を指し示し、若きアリストテレスは事物(ヒュレー)の中にイデア(エイドス)があるとして地を指します。そして2人は歩きながら対話しながら、真理に至ろうとつとめています。


「イデア」というのはこれまでの文脈で言えば、ネガティブに言われることの多い概念です。それはカントのア・プリオリや、いわゆる絶対的な存在としての「神」という概念と結びつき、イデア、ア・プリオリ、神、絶対的な公理というのは、ゲーデルの悪魔的な定理である不完全性定理によって破壊しつくされたというのが我々の現在の理解です。

しかし、たとえばユークリッドの公理がそもそも我々が考えるような(そして後世の天才たちもが間違えて引用した)絶対的なものではなく、「要請」であったように、「イデア」もそもそもは公理でも、ア・プリオリでもありません(間違えて引用した天才とはたとえばカントであり、ホッブズです。ただそれも間違いなのかは微妙です)。

プラトンのイデア論で有名な洞窟の比喩を再度読みなおしてみましょう。

(引用開始)
「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。

 ーー地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ。彼らの上方はるかのところに、火が燃えいていて、その光が彼らのうしろから照らしている。
 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道が上のほうについていて、その道に沿って低い壁のようなものがしつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている。」
「思い描いています」とグラウコンは言った。
「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出す者もいるし、黙っている者もいる。
「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。
「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った

(プラトン「国家」7巻514A-515A 岩波文庫「国家」下巻 pp.104-105 )
(引用終了)

いわゆる映画館と同じです(むしろ影絵というべきか)、映写機から放たれる光がスクリーンに映るとき、そのスクリーンが実在だと思うということです。スクリーンに広がる世界が実在であるという感覚は、我々は共感可能です。映画に没入しているとき、我々はスクリーンの世界は実在であると感じ、そしてそこに同調しています。そうでなければ不随意的な心拍や呼吸が変化するはずもありません。

しかし、この場合の実在は影ではなく「その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行く」ほうであることは明らかです。

これが単純なモデルとしてのイデア論です。

いわば客席後方からの投光機でうつされた影絵です。
後方にある光源によって照らされてできた影を我々は実在だと思って見ています。


*これは投光は逆向きですが、影に我々はリアリティを感じます。洞窟の比喩の可哀想な奇妙な囚人と同じです。

実体を見ると意味不明でも、その影を見ると意味がリアルになる作品というのは多くあります。
たとえば実体はガラクタにしか見えないのに、光を当てると意味を持つこちらなどです。


プラトンの「国家」の続きを見ていきましょう!これはセミナーでは定番の話ですが、きちんと全文の引用を示して議論することはありませんでした(中身については幾度なく触れましたが)。

(引用再開)
「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。
「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部に火の光で投影される影のほかに、何か別なものを見たことがあると君は思うかね?」
「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」
「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」
「そのとおりです」
「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」
「そう信じざるをえないでしょう」
「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?〔彼らのうしろを〕通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」
「いいえ、けっして」と彼。
「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」
「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。
「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

(引用中断)(pp.105-106)

このあとにプラトンの描く(師匠であり)この物語の主人公であるソクラテスが「無知を癒される」方法について、より正確には無知を癒されるとはどのようなことであるかを語ってくれます。
期待に胸踊らざるを得ません。

とは言え、無知を癒やすということを、間違っても知識を増やすことなどとソクラテスは考えていません。


余談ながら、最澄という人は本気で写経することで新しい教えを学べると考えていた節があります。
教師が書いた板書を生徒がノートにきちんと写せば、それで学習が事足りると考えるのは浅はかとしか言いようがありません。

理趣釈教を貸す貸さないでもめたのが決定的となり、その数年後に2人は袂を分かつというのが通俗的に知られる話です。

空海が理趣釈教を断る理由の本質的なものが、最澄の学びの態度にありました。もちろん態度が悪いとかそういう話なのではなく、向かうべき態度がずれているということです。ただ求められている正しい態度をここで安易に「師承」と言ってしまうとまた少し違う気がします。

ちなみに、最澄は「依憑天台宗序」において、「新来ノ真言家、則チ筆受之相承ヲ泯ス」(司馬遼太郎「空海の風景」下巻p.293)と書いています。(僕はこの新来がなぜか新米に見えてしまい...最澄の怒りを読み込んでしまいましたw以前のレジュメでは誤って紹介しています。申し訳ない。
もちろん「新来」というのもかなり痛烈な言い方です。日本の歴史において雑密以外にはじめて密教を日本に紹介したのはもちろん空海!!、、ではなく正式には、最澄その人です。これは、天台に向かった最澄にとっては、むしろ棚からぼたもちのようなものです。ただ、桓武天皇のはからいで最澄は高雄山寺において日本の密教史上最初の灌頂を行っています。勅命灌頂であるために、高名な老僧がいわば引きずり出されてきました。桓武天皇以外、誰もが望まぬ灌頂です。それが延暦24年9月1日。一方で空海が長安で恵果から伝法を受け、真言密教の第八世法王になっているのがその年の8月。歴史の皮肉と言えます)(同下巻p.79)

最澄と空海というのは、非常に極端な言い方をすれば、顕教と密教をそれぞれ象徴します。そして顕教とは筆受であり、密教は師承です。

最澄 v.s. 空海
顕教 v.s. 密教
筆受 v.s. 師承

というきわめて密教的ではない分類がとりあえず可能かと思います。

その上で、空海が最澄に対して伝えようとした「学びの態度」のズレとは何かと言えば、

モシ心ノ理趣ヲ覓ムレバ、汝ガ心ノ中ニ有リ。別人ノ心ノ中ニ覓ムレヲ用イザレ。
モシ仏ノ理趣ヲ覓ムレバ、汝ガ心ノ中ニ能ク覚者アリ、即チ是レナリ。・・・・・・・
モシ衆生ノ理趣ヲ覓ムレバ、汝ガ心ノ中ニ無量ノ衆生有リ。其レニ随ツテ覓ム可シ 
(同p.288)

非常にざっくりと言えば、「汝が心中に求めよ」ということです。自分の心の中を探せということであり、まさにブラフマンが真理を隠した場所と符号します(これまた密教的とはいえないざっくりさです)(そもそも密教がバラモン教に由来することを考えれば、空海がこの立場を顕示するのは当然と言えます)

じゃあ、心の中に主観的に自由に思い描けば良いのかと言えば、それは全く間違いです。

そこで出てくるのがイデアという考え方です。

そしてイデアを引き出すのはソクラテスの弁証法とも言われる産婆術(対話法)以外にはあり得ないのです。すなわちソクラテスとは密教者なのです。

(引用再開)
ーーー彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとっても、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。
 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何と言うと思うかね?そしてさらにその人が、通りすぎて行く事物のひとつひとつを彼に指し示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの〔影〕のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」
「ええ、大いに」と彼は答えた。
(引用中断)(同プラトンp.107)

これは非常によくある話です。

自分の抽象度に合わせたものしか見えないのです。

我々は最初は影にむしろ真実性を感じ、実体はまぶしくて見えないのです。

(引用再開)



「それならまた、もし直接火の光そのものを見つめるように強制したとしたなら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?」
「そのとおりです」と彼。
「そこで」とぼくは言った、「もし誰かが彼をその地下の住いから、粗く急な登り道を力ずくで引っぱって行って、太陽の光の中へと引き出すまでは放さないとしたら、彼は苦しがって、引っぱって行かれるのを嫌がり、そして太陽の光のもとまでやってくると、目はぎらぎらした輝きでいっぱいになって、いまや真実であると語られるものを何ひとつとして、見ることができないのではなかろうか?
「できないでしょう」と彼は答え、「そんなに急には」
「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。ーーーまず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう」
(引用終了)(同プラトンpp.107-108)

ここで言われていることの本質を一言で現すとしたら、「慣れ」ということになるかと思います。

だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。

ということです。「上方の世界の事物」とは我々が概念空間なり情報空間、情報場として認識する抽象度の高い(上方の)世界の事物ということです。

ちなみにプラトンの引用はこの先も相当に面白いのですが、またの機会にします。
きちんと読むならば、様々なことが腑に落ちると思います。

少なくとも、たとえば上記のことを踏まえると我々のイデアに対する理解というのは著しく更新されると思います。


その上で予告編的にいくつかソクラテスの言葉を紹介します。

(引用開始)



「それなら」とぼくは言った、「もし以上に言われたことが真実であるならば、われわれは、目下問題にしている事柄について、次のように考えなければならないことになる。すなわち、そもそも教育というものは、ある人々が世に宣言しながら主張しているような、そんなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂のなかに知識がなから、自分たちが知識をなかに入れてやるのだ、ということらしいーーーあたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのようにね」
「ええ、たしかにそのような主張が行われていますね」と彼は言った。
「ところがしかし、いまのわれわれの議論が示すところによれば」とぼくは言った、「ひとりひとりの人間がもっているそのような〔真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれをーーあたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったようにーー魂の全体といっしょに生々流転する世界から一転させて、実在および実在のうちに最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、〈善〉にほかならぬ。そうではないかね?」
「そうです」
「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなく、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

(引用終了)(pp.115-116)

さらっと書かれていますが注目すべきは「もし以上に言われたことが真実であるならば」というソクラテスの留保です。これは当時の形式的な言い回しなのではなく、ソクラテス自身の理解を示しています。

ただし、これが真実にまさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけが知りたもうところだろう。(517B 同p.112)

すなわち、ソクラテスは自分が知っているという立場には絶対に立たないし、立てないことを知っているということです(「無知の知」と言ってしまうとそのとおりなのですが)。ただその上で、自分ができる限界には到達しようとし続けています。

そして、ソクラテスによれば教育とは、「その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなく、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術」です。非常に明快な主張がなされます。


ここが最澄と空海の違いであり、最澄は「あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのように」筆受によって、脳から脳へと写経できると考え、空海は「視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する」と考えています。

この点が決定的に異なると考えます(歴史上の人物としての最澄がそうであったと言い切れるとは正直、思いません。これはカリカチュアした最澄であり空海です)。


長くなってしまいましたが、今回のテーマはアリストテレスの汎神論です。
アリストテレスの密教とも言うべき部分を紹介しようと思います。

この書自体はトマス福音書などと似て(似ているのか?)、偽書とされているものです。偽アリストテレスの書とされているものです。

いわゆるアリストテレスはご承知のとおりマケドニアの王子の家庭教師であり、そのマケドニアの王子は史上初と言ってよい世界帝国を築きます。かのアレクサンドロス3世であり、アレクサンダー大王などとして知られています。寺子屋・世界史「帝国の逆襲」において、トップバッターはこのマケドニアの王子の帝国でした。
その前段として、アレクサンダー大王のパパ(フィリッポス2世)によるテーバイの侵攻があり、テーバイはスパルタに勝ち、スパルタはアテネに勝ちます。ですから古代ギリシャのポリス世界はアテネ→スパルタ→テーバイ、そしてアレクサンダー大王のパパの代で終わりを告げます。なぜバラバラしていたポリスのギリシャ世界が一致団結したかと言えば、巨大なジャイアンのようなペルシャがいたからです。
まあ、それはさておきマケドニア領に生れたアリストテレスは、師であるプラトンが亡くなった年にマケドニアの王子の家庭教師となります。

彼に向けて書かれた書の第七章にこうあります。

(引用開始)
神はただ一人でありながらも多くの名を有する。神自身が次々と生み出すすべての様態に基づいた名で呼ばれるからである。われわれは神をゼーナともディアとも呼び、その名をわれわれは交換的に使用しているが、これはあたかも神を(ディア、ゼーナ)、「それによって(ディア)われわれが生きている(ゼーン)ところのもの」と述べようとしているかのごときである。また神はクロノス神ともクロノス(時間)の子とも言われているが、これは神が終わりない永遠から永遠へと生きつづけているからである。神はまた、雷光の神とも、澄み切った空の神とも、アイテールの神とも、雷電の神とも、雨の神とも呼ばれるが、それは雨と雷電とその他さまざまな現象に由来した名なのである。(略)全体として言えば、天と地の神である。自然のあらゆる事象や状態からその名を得ている。というのも、神自身が万物の原因だからである。(引用終了)(アリストテレス全集6「宇宙について」第7章冒頭pp.299-300)



*これらを踏まえて、再びラファエロの絵を眺めると非常に興味深いと言えます。

すなわち、ソクラテスはプラトンを弟子として、その臨終にあたっても同席を認めます。ソクラテスのインナー・サークルの中にいました。ソクラテス教団とも言えるべき秘密結社の一員であり、一番弟子と言えます。
そして、プラトンもまた秘密結社をつくりアカデメイアと名付けます。そこにプラトンが死ぬまで学んだのが、アリストテレスです。プラトンの死後、内紛で追い出されたアリストテレスはマケドニアの王子を教えます。その教えの場もまた閉じられた世界です。その王子は巨大な帝国を創り上げます。アリストテレスはリュケイオンをつくり、それは東ローマ帝国皇帝によってアカデメイアと共に529年に滅ぼされるまで続きます。
ラファエロは尊敬するレオナルドをソクラテスに仮託して描きます。ラファエロとレオナルド・ダ・ヴィンチもまたあたかも師弟関係のような濃密な関係があります。ラファエロの作品を見ていくと、ある時期から明確にダ・ヴィンチになっていきます。




壁を突き破っていきましょう!!!


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