最近の「まといのば」でのブームはモーダルチャネルでした(チェンネルではなく、チャネルと言うのが好きです。テキストではなくテクストみたいなものですw)
モーダルチャネルとは脳の入出力回路のことです。ざっくりと言えば、(アリストテレスが定式化したように)五感です。アリストテレスが感覚を5つと決め、ニュートンが虹の色を7色と決めたと言われます(7つにスペクトルが見えたというよりは、錬金術師として7をつけたようですが)。
まあ、いずれにせよ、ざっくりと言えば、
モーダルチャネル=五感
です。
なぜ単なる感覚器官(哲学風に言えば「感官」)の回路をモーダルチャネルなどと言い換えるかと言えば、脳というそれ自体は見ることも触ることも味わうことも嗅ぐことも聞くこともできない裸の王様が、どうやって外界とコミニケーションを取るかにフォーカスしたいからです。
だからこそ脳の入出力チャネルなのです。
脳は地球と同じく、暗闇の中に浮いているようなものです。外界とは触れ合うことはありません(頭蓋骨が割れて、外界とリアルに接しても、それに対して痛みを覚える神経は脳にはありません。脳は神経の塊なのに、逆説的です)(もちろんここで無邪気に「外界と触れ合うことはない」と言いましたが、「外界」そのものは作業仮説でしかなく、その足場は建物が完成した暁には取り外されます)。
脳はいわば暗黒の中にはかなげに浮かぶ地球のようなものです。地球のほうがまだ直接的に宇宙とかかわれますが、脳は直接的には外界と関われず、モーダルチャネルという部下からの報告を待つしかありません。
*月からみた地球。寄る辺なく宇宙にぷかぷかと浮いている地球というのはきわめてはかないものです。
バートランド・ラッセルが書いたアインシュタインの相対性理論の解説本があります。哲学の風景などでは紹介したかと思いますが、非常に良い本です。ファインマン物理学が難しい場合は(実際に難しいですし)、まずこのラッセルの本から入ると良いと思います。もしくは、ガモフから。
それはさておき、ラッセルがこう語ります。
われわれがわれわれの感覚の延長線上に世界像を結ぼうとすると、それは「まったく誤りやすい」(p.181)と言います。
「地球が真空の中に浮かんでいられるというのは奇妙に思われます。当然のこととして考えるのは、地球が落下するはずだということです。地球はゾウによって、ゾウは亀によってささえられねばならないというのが、ある昔の思想家による理由づけです。」(以上、バートランド・ラッセル「相対性理論の哲学 ーラッセル、相対性理論を語るー」pp.181-182)
*
もちろんこのエピソードはホーキングのこんな話を連想させます。
(引用開始)
有名な科学者(バートランド・ラッセルだという人もいる)があるとき、天文学について公開講演を行なった。彼は、地球がどのように太陽を回っているのか、そしてその太陽が星の巨大な集団であるわが銀河の中心をどのように回っているのかを説明した。講演が終わると、一番うしろの席に坐っていた小柄な老婦人が立ち上がってこう言った。
「あなたのおっしゃることは、みんな馬鹿げてますわ。本当は世界は平たい板みたいなもので、大きな亀の背中に乗っているんですもの」
科学者は見くだすような薄笑いを浮かべて、おもむろにたずね返した。
「では、その亀は何の上に乗っているんでしょうか?」
老婦人は平然と答えた。
「まあ、お若いのにお頭(つむ)のおよろしいこと。でも、よろしくって、下の方はどこまでいっても、ずっと亀が重なっていますの!」
(引用終了)(ホーキング「ホーキング 宇宙を語る」)
*ホーキングが映画の中で書いていたのがこちら「ホーキング 宇宙を語る」という邦題の "Breif History of time"です。映画の中でHistory of timeにBriefと付け足していたのが非常に印象的でした。僕らは作品というものをあたかもすでにあるかのように感じてしまいますが、それは時空のどこかでリアルタイムに書かれているということを忘れているということです。作品はあるものではなく、生み出されるものです。そして再び読者によって「生み出される」ことではじめて輪が閉じます(ウロボロスの蛇のようなものです)。
その文脈(理解)から、ゲーテのファウストの一節を読み返すと、ゲーテの意図が見える気がします。
「そもそも文書なるものは、いわば一口飲んで永久に渇きを癒す神聖な泉であるものかね? 心身を爽快にしてくれるものは、きみ自身の魂の裡から湧きいずることなければ決して得られぬ」 (ゲーテ「ファウスト」)
(ちなみに、青空文庫では森鴎外の翻訳が出ています。
ファウスト
古文書がなんで一口飲んだだけで
永く渇を止める、神聖な泉のものか。
なんでも泉が自分の霊(れい)から涌いて出(で)んでは
心身を爽かにすることは出来ない。
)
「きみ自身の魂の裡から湧きいずる」もののいわば呼び水として素晴らしい文書はあります。
ラッセルはこう言います。
「玉突きのボールの衝突がいかにも簡明に見えるのは、まったくの幻影なのです。実のところ二つの玉突きボールはまったくさわりもしません。すなわち本当に起こっていることは想像もできないほどこみいっているのです。」(ラッセル「相対性理論の哲学」p.23)
ラッセルは非常に重要なポイントに切り込んでいます。われわれが現代物理学をいわば神学や神話のように扱っている限りは、われわれはいわば呪術的な世界に閉じ込められてしまうということです。
「しかし、ニュートンの引力の法則がある難題を持ち込みました。玉突きでぶつかる2個のボールに働く力については、自分がある人にドシンとぶつかったらどんな感じがするのかを知っているので、わかりやすく思えました。しかし地球と太陽とに働く力は、なにしろ互いに約1億5000万キロメートルも離れているので、謎のようでした。ニュートン自身はこの“遠達作用”をあり得ないことだと見なして、なにかまだ未知のメカニズムがあって、そのメカニズムによって太陽の影響が惑星たちへ伝達されると信じていました。けれどもそういうメカニズムは発見されないで、依然として重力は一つの謎として残ったのです。」(同 p.23)
いわゆる「教科書」の見解とは真っ向から異なります。
しかし、果たして「ニュートン自身はこの“遠達作用”をあり得ないことだと見なして」いたのでしょうか??われわれの教科書的な理解では、ニュートンが重力理論を打ち立てました。
最近の寺子屋集中講座でもひとつのポイントになりましたが、ニュートンはこんな手紙を書いています。
「魂をもたない野卑な物質が、物質的でない他のものの媒介なしに作用するとか、相互接触なしに他の物質に影響するとかは考えられません。」
もちろん磁力は知られていたでしょうが、それ以外の遠隔作用をニュートンは想定しないと言っています。
これは手紙だけではなく、ニュートンのプリンキピア・マテマティカにおいても同様です。
少し長めに引用します。ニュートンの手触りが分かると思います。そしていかにわれわれがニュートンを誤解していたかもわかります。
これはプリンキピアのほぼ最後の「一般的注解」からの引用です。
(引用開始)
6個の主惑星は、太陽を中心とする同心円上を回転し、同一の運動方向をもち、ほぼ同一の平面上にあります。(略)これらすべての規則正しい運動を生ずることは、力学的要因だけからでは得られようもありません。(略)この、太陽、惑星、彗星の壮麗きわまりない体系は、至知至能の存在の深慮と支配とによって生ぜられたのでなければほかにありえようがありません。(略)
この至高の存在はありとあらゆる事物を統治するのです。(略)盲人が色彩の観念をもたないように、わたくしどもは、全知の神がいっさいを知覚し認識する仕方について、なんの観念ももっていないのです。(略)以上、神に関して述べたのですが、事物の現象するところより神に及ぶのは、まさしく自然哲学に属することなのです。
これまで天空とわれわれの海に起こる諸現象を重力によって説明してきたのですが、重力の原因を指定することはしませんでした。事実この力はある原因から生ぜられるものです。(略)しかし実際に重力のこれらの特性を現象から導くことは、わたくしはこれまでできませんでした。けれどもわたくしは仮説を立てません。といいますのは、現象から導きだせないものはどんなものであろうと、「仮説」と呼ばれるべきものだからです。そして仮説は(略)「実験哲学」にはその場所をもたないものだからです。(引用終了)(pp.560-565 以上、中央公論社・世界の名著シリーズ「ニュートン」)
非常に興味深いのですが、まずラッセルとの絡みで言えば、「重力の原因を指定することはしませんでした。事実この力はある原因から生ぜられるものです。(略)しかし実際に重力のこれらの特性を現象から導くことは、わたくしはこれまでできませんでした。けれどもわたくしは仮説を立てません。」という部分が対応します。
「わたくしは仮説を立てません」とはニュートンの有名な言葉です。これはもちろん遠隔作用をオカルトと批判したライプニッツたちへの反論です。
重力に何らかの原因があるだろうが、「重力のこれらの特性を現象から導くことは、わたくしはこれまでできませんでした」と書いています。もちろんニュートンの宇宙理解の背景には「至知至能の存在の深慮と支配」があります。そして「この至高の存在はありとあらゆる事物を統治するのです。」
(余談ながら、僕はニュートンの言うこの「盲人が色彩の観念をもたないように、わたくしどもは、全知の神がいっさいを知覚し認識する仕方について、なんの観念ももっていないのです。」が好きです。「盲人が色彩の観念をもたないように」という部分に釈迦の沈黙を思い出します。
引用続きですが、仏伝から該当部分を引きます。中央公論社の世界の名著「バラモン教典・原始仏典」からの引用です。
自分の悟ったところを、人々に話して聞かせることはむだである。自分の 悟った法は、あまりにも深く、あまりにも微妙であって、愛欲に盲いた人々 のよく理解するところではない。説法することは、むだな努力であり、いや、聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱うことにもなる。こ のまま沈黙をまもり、ただちに涅槃にはいるに如くはない(仏伝)
イエスは「豚に真珠」と言いました。
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」(マタイ7:6)
ナシーム・ニコラス・タレブに言わせれば、「初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。もらったときには何なのか知らなかったわけだから。(ナシーム・ニコラス・タレブ「強さと脆さ」p.161)」
非常に辛口ですが、分かりやすいですw)
とは言え、ニュートンのこの理神論・汎神論的な立場をわれわれは批判できません。
たとえばアインシュタインの相対性理論ばかりではなく、現代物理学という公理系が要請するのは「物理法則はすべての観測者に対して同じである」というものです。(特異点などを無視すれば、もしくは事象の地平線の向こう側を無視すれば)宇宙にあまねく同じ法則が成り立っており、この至高の存在物理法則はありとある事物を統治する、と言っても過言ではありません。
アインシュタインから一周してまたニュートンに戻ってきたような感覚です。
ウロボロスの蛇です。
旅というのは同じところに戻り、しかし、そこが同じところではないと気付く過程です。
その感覚で、宇宙空間に浮かぶ地球を見ると、「なぜ地球は虚空へと落ちていかないのだろう」と直感的に不思議に感じます。そしてその直感を考えると、われわれは「日が昇る」と天動説・地動説のように、「触れる」とニュートン力学・アインシュタイン相対性理論を対応させて考える必要が見えてきます。
この記事では、モーダルチャネルの話しをするつもりで、脳の話しをしようと思い、暗闇の中に浮かぶ絶対的に外界から切り離された脳のイメージと暗闇の中に浮かぶ地球のイメージを重ねるつもりでしたが、その地球がラッセルを呼び、ホーキングを呼び、ニュートンを呼び、アインシュタインを呼びました。
概念はそれだけが中空に浮かんでいるものではなく(たとえ、そう見えたとしても)、様々な概念ネットワークの海の中に浮かんでおり、そしてそれぞれがゆるやかにしかし密接につながっています。そのネットワークのネバネバをたぐり寄せることで、理解が深まります。アリアドネの糸は論理の鎖です。
モーダルチャネルの話から、入出力という点を踏まえて、最近のトピックである”Reading”に迫ろうと思ったのですが、それはまた次回以降に!!
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「博士と彼女のセオリー」が盛り上がっている時にブログで紹介したかったネタです。
ネタバレになるので、避けていましたが、そろそろ良いかと思うのでブログで公開します!
映画を見た上でこの裏話を見るとより感動が深まるように思います。
完全性と偶発性が火花を散らすところに創造の奇跡があります!
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初めて知恵をつけられたブタが、前に真珠をもらったのを思い出すのは難しい。(タレブ)
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