ハイデガーはヨーロッパの形而上学がいま終末段階にあると考え、ニーチェの思想はそれを明瞭にあらわしていると考えました。
形而上学の終わりというのは、たとえばウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」でも言及しています。
そして論理学からはじまり、数学の公理化、物理学の公理化、そして哲学の公理化へと進もうとしていた野望はゲーデルによって食い止められ、チューリングによってより明確に予言され、チューリングの仮想上の計算機を実際にLispの上で動かしてみせたのがチャイティンでした。
ハイデガーの言葉でたどってみましょう。
(引用開始)
以下の註解が試みるのは、恐らくいつの日かニヒリズムの本質への問いがそこから立てられるようになるその場所へ向かって指示することである。この註解はもともと、とりあえずヨーロッパの形而上学の一段が占める根本的位置をつきとめ始める思索から由来するものである。その指示は、ヨーロッパの形而上学の一段階、おそらくはその終末段階であると察せられるところの一段階に解明を加える。それが終末段階であると察せられるのは、形而上学はニーチェによってそれ自身の本質的可能性を或る仕方でみずから奪うにいたるので、そのかぎり形而上学の別途の可能性がもはや現れ得なくなっているからである。(引用終了)(マルティン・ハイデガー ニーチェの言葉「神は死せり」ハイデガー選集Ⅱ理想社p.3)
ハイデガーはわかりにくいですが、正確さを来そうとして書いています。それはいわゆる哲学者と同じです。
たとえば「恐らくいつの日かニヒリズムの本質への問いがそこから立てられるようになるその場所へ向かって指示することである」という物言いを、ではニーチェだったらどう言うのでしょう。
「この人をみよ」の序言の冒頭です。
(引用開始)
わたしは近いうちに、これまで人類に突きつけられた要求の中でのもっともむずかしい要求を人類に突きつけねばならなくなろう。そのことを予測して、わたしには、わたしが何人であるかを述べておくことは、どうしてもしておかねばならぬことのように思われる。(引用終了)(ニーチェ「この人を見よ」序言p.7)
「これまで人類に突きつけられた要求の中でのもっともむずかしい要求を人類に突きつけねばならなくなろう」というのは分かりやすい物言いです。とは言え、それが何を指しているのかを理解するのはすべてを読まないといけません。
ハイデガーは続けてニーチェの「神は死せり」を引用します。
(引用開始)
狂気の人間。ーー諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、ーー白昼に提灯をつけながら、市場へ駆けて来て、ひっきりなしに「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。(引用中断)
この狂気の人がツァラトゥストラに引き継がれますが、モチーフは同じです。
神を探しているはずの狂人は神が死んでいることも、我々が殺したことも知っています。
知っているのに、探しているのがまさに狂人ゆえなのかもしれません。
白昼に提灯をつけて、市場へ駆けて来て「神を探している」と叫ぶ狂人というのは、まさにその光景が目の前に広がります。
(引用再開)
ーーー市場には折しも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。「神さまが行方知れずになっというのか?」とある者は言った。「神さまが子供のように迷子になったのか?」と他の者は言った。それとも神さまは隠れん坊したのか? 神さまはおれたちが怖くなったのか? 神さまは船で出かけたのか? 移住ときめこんだのか?」ーー彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。(引用中断)
このシーンもまさに印象的です。
神さまは迷子ですか?と狂人に対してあざける信仰無き人びとが描かれます。
(引用再開)
狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちにいってやる! おれたちが神を殺したのだーーお前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者なのだ!(引用終了)(フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」125 ちくま学芸文庫 p.219)
この一連のシーンはおそらくはハイデガーがきわめて肯定的に引用し紹介することで、哲学の世界でそして実世界でも有名になりました。
そして、非常に美しいシーンです。物狂いの人が市場に駆け込み、神を探し、神の死を宣告し、その死が殺害によるものであり、その殺害者はほかならぬ我々自身であることが描かれています。そして神の死によって、世界が急速に虚無的になっていくことが続いて描かれます。
あまりに引用が長いのもなんですが、非常に良いところですので、引用を続けます。
(引用再開)
だが、どうしてそんなことをやったのか? どうしておれたちは海を飲みほすことができたんだ? 地平線をのこらず拭い去る海綿を誰がおれたちに与えたのか? この地球を太陽から切り離すようなことを何かおれたちはやったのか? 地球は今どっちへ動いているのだ? おれたちはどっちへ動いているのだ? あらゆる太陽から離れ去ってゆくのか? おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか? それも後方へなのか、側方へなのか、前方へなのか、四方八方なのか? 上方と下方がまだあるのか? おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではない? 寂寞とした虚空がおれたちに息を吹きつけてくるのではないか? いよいよ冷たくなっていくのではないか? たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか? 白昼に行灯をつけなければならないのではないか? 神を埋葬する墓掘人たちのざわめきがまだ何もきこえてこないか? 神の腐る臭いがまだ何もしてこないか?ーー神だって腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! それもおれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?
世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ(略)これよりも偉大な所業はいまだかつてなかったーーそしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」
(引用中断)(pp.219-220)
神を殺害し、世界が急速に色どりを失い、虚無に成り果てていく様が見えます。
そして、神の腐る臭いがそろそろし始めます。
神を失うということは、真理を失い、絶対的な基準を失い、知識の拠り所を失います。
ウンベルト・エーコの小説「薔薇の名前」の中でも、神の不在とは知識が存在しないことにつながらないかという問いかけがされます(その瞬間に書庫室が焼け崩れて、その質問自体が宙に浮きますが)。
神という概念がそれほど重要でない場合には、神の死というのは、交番に掲示されている昨日の死亡者数程度の意味しかありません。しかし、神は善悪の基準であり、知識の正しさを担保してくれる身内であると考えるならば、神の喪失は深刻です。ましてや自分の手が血で染まっているとしたら。
知識の正しさを担保するものがないということは、ある知識が正しいかどうかを言えないということになります。フランシス・ベーコンが高らかに血は知は力と言いましたが、そのパワーは神から来ていたということです。正しい知識と間違った知識の区別がつかないからです。
たとえば赤信号で止まるのは、赤信号が「止まれ」であるというルールがあるからです。このルールの正しさを担保するのは、最終的には神です。(余談ながら、そうすると、地の底からウィトゲンシュタインとクリプキが声をそろえて「規則は行為の仕方を決定できない」と言いそうですw。先日の「はじめての気功」でも取り上げましたが、ちょっと復習しておきましょう。「我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。」)
神無き世界とは、北斗の拳のような世界になります。ホッブズの考える自然状態です。万人の万人に対する闘争が始まります。まさにThe end of the worldです(この唄のYouをGodと見なして、ピラトのように血だらけの手を洗いながら唄えばニーチェになりますw
どうでもいいのですが、先にも述べたように、ニーチェの自伝のタイトルの「この人を見よ」は聖書の文句であり、言ったのはピラトです)
知識とか真理の体系というカードのお城は崩れ落ちてしまうのです。
しかし、いつ誰が神を殺したのでしょう。
それについて、我らが名探偵コナン(フロイト先生)は次のように語ります。
そもそもモーセという名前からして、ユダヤ人ではなく、エジプト人である。名前からの推理からスタートし(ちなみにこの推理自体は古くから、それこそ2000年前から議論されており、たとえばゲーテなどもそう考えていました)、神が突然に一つの民族を選び出し、契約するのは神話として奇異であるとフロイト先生は主張し、そうではなく、「モーセこそがユダヤの民のなかに身を落とし、彼らをモーセの民族としたのだ。ユダヤ民族はモーセによって「選ばれた民族」だったのだ」(p.81)と考えます。すなわち神=モーセが民族を選んだ、と。
そして、「もしもモーセがひとりのエジプト人であったならば、そして、もしも彼がユダヤ人に彼自身の宗教を伝えたとするならば、それはイクナートンの宗教、すなわちアートン教であった、と。」(以上、ジグムント・フロイト「モーセと一神教」p.045)
モーセがエジプト人であり、むしろ王家の生まれであり、血筋の良い王子であり、そして当時のイクナートンの宗教(一神教)の熱烈な信奉者であり、イクナートン亡きあとに自分の民族を選び、自分の信仰を強制したというのが、コナンもしくは毛利小五郎の推理です(コナンくんより、小五郎のほうが似ています。顔が)。
フロイト先生はこう書きます。
(引用開始)
モーセもイクナートンも、開明君主を待ち受ける同じ運命の道を辿った。第一八王朝時代のエジプトの民衆と同様、モーセ配下のユダヤ民族も、かくも高度に精神化された宗教に耐えることができず、このような宗教のなかにおのれの欲求の満足を見出す力を持っていなかった。両者に同じことが起こった。監督支配され不当に遇された民衆が蜂起し、課せられた宗教の重荷を投げ棄てた。しかしながら、温和なエジプト人がファラオという聖化された人物を運命の手に委ねたのに対し、荒々しいセム人は運命をおのれの手に入れ、独裁者を片付けてしまった。(引用終了)(「モーセと一神教」pp.84-85)
「独裁者を片付けてしまった」というのは、殺したということです。
モーセという神を民族が殺したということです。そしてその殺人を隠した抑圧の結果、その反復として、回帰として、(再びユダヤ人によってユダヤ人の)イエス・キリストも殺されます。
「ユダヤの王」と書いたのはピラトですが、ここでは同じくモーセもキリストも王なのです。
すなわち神殺しとは、いわゆる王殺しです。
すると闇の中でほくそ笑むフレーザー様が出てきそうです。
*フレーザー
フレーザーについては書くことがたくさんあるのですが、点描のようにいくつか。
ちなみになぜフレーザーが出てくるかと言えば、モーセもキリストも王として、そして弱体化した王として殺されており、この王殺しが普遍的であることを示したのがフレーザーだからです。
フレーザーと言えば金枝であり、金枝と言えばターナーが思い浮かばれます。
そしてターナーの金枝と言えば、夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中のワンシーンが思い浮かびます。漱石自身がモデルとも言われる赤シャツ(スネオが成長したみたいないけ好かないやつです)が、美しい松の木を見て「ターナーの画にありそうだね」というシーンがあります。
*ターナー「金枝」
僕はテート美術展(テート・ブリテン)で観ました。
(引用開始)
赤シャツは、しきりに眺望(ちょうぼう)していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹(ふ)かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直(まっす)ぐで、上が傘(かさ)のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙(だま)っていた。(引用終了)(青空文庫)
ちょっと長くなってしまったので、長い上に錯綜していますが、そろそろまとめます。
「モーセと一神教」という著作は先日の寺子屋「ニーチェ」でも触れたように、非常に読みにくい本です。その精神分析的な理由は多くあると思いますが、その中心命題はシンプルです。ここで毛利小五郎ことフロイト先生の分析を聞いてみましょう。
フロイト自身ではなく、ユダヤ史の世界的権威による「フロイトのモーセ」からの引用です。
モーセと一神教の結論だけをトレースした見事な要約ですので、これを頭にいれてから、すなわち犯人の目星をつけてから、推理小説を読むといいです(それは推理小説ではないと思われるかもしれませんが、刑事コロンボのような倒叙ものもまた推理小説です)
(引用開始)
フロイトのモーセ論の粗筋は、今では周知だが、評判はよろしくない。
一神教はユダヤ起源ではなく、エジプトで見出された。アメンホテプ四世は、ここから太陽の力ーーあるいはアトンーーをもっぱら崇拝対象とする国家宗教を確立し、これにちなんでみずからイクナートンと改名した。フロイトによれば、アトン教の特徴は唯一神への排他的信仰になり、そこでは擬人観や呪術や魔法は拒否され、死後の生も完全に否定されていた。しかしながら、イクナートンの死後、彼の偉大なる異端信仰は急速に取り消され、エジプト人はかつての神々へと戻っていった。モーセはヘブライ人ではなくエジプト人の神官か貴族であり、熱心な一神教徒だった。彼はアトン教が消滅しないように、当時エジプトにあって迫害されていたセム系の部族の先頭に立ち、彼らを奴隷の身分から解放して新たな民族を創始した。そして、さらに精神化され非偶像化された一神教を与え、また彼らを〔自分の民族として〕区別するため、割礼というエジプトの慣習を導入した。だが、かつての奴隷から成る粗野な群衆は、新たな信仰が要求する厳しさに耐えられなかった。そのため暴動が起り、モーセは殺され、殺害の記憶は抑圧された。イスラエル人はミティアンにいたセム系の近縁部族と妥協的な同盟関係を結び、ヤハウェと呼ばれた凶暴な火山神が今や彼らの民族神となった。その結果、モーセの神はヤハウェに統合され、彼の事業も同じくモーセと呼ばれたミディアンの祭祀に帰せられた。しかしながら、真なる信仰とその創設者についての埋もれた伝承は何世紀ものあいだに再び自己を主張するのに十分な力を蓄え、ついに勝利を得るに至った。それ以後、ヤハウェにはモーセの神の普遍的で精神的な性質が賦与されたものの、他方モーセ殺害の記憶はユダヤ人のあいだでは抑圧されたままであり、キリスト教の台頭とともに偽装された形でのみ再浮上する。(ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ「フロイトのモーセ」pp.5-6)
フロイトは最初この説を歴史小説として書いていました。そしてそうすれば最後まで、そうすれば良かったのかもしれません。
いずれにせよ謎解きは楽しいものです。そして解けた謎が新たな謎を呼び、その不可思議なラビット・ホールに堕ちていくことだけが、人生の喜びです。
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「迷子のお呼び出しを申し上げます。天界からお越しの神さま、いらっしゃいましたら〜」
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