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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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「人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。」

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ニーチェほど魅力にあふれた哲学者はいないかもしれません。

哲学者の多くが自分が語ることが正確に伝わるかどうかに確信が持てず、なにがしかの論理を展開するまえに丁寧に概念の説明をし、その概念を支えるものの見方を説明しているうちに、何がなにやらわからなくなってくるのに対して、ニーチェは直截的です。

彼の思想のキーワードの一つに「超人」があります。

「ツァラトゥストラ」の冒頭にこうあります。

(引用開始)
わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り越えられるべきもあるものである。あなたがたは、人間を乗り越えるために、何をしたか。(略)
 人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。

(引用終了)(ニーチェ「ツァラトゥストラ」)

ちなみにツァラトゥストラとはゾロアスターのことです。僕は誤解していたのですが、ゾロアスター教の開祖がゾロアスター(ザラスシュトラ)であり、そこでの超越神は(これは悪魔学でやりましたが)アフラ・マズダーです。

端的に言えば、

ゾロアスター=ツァラトゥストラ=ザラスシュトラ


*ラファエルの「アテナイの学堂」にもザラスシュトラの姿が見えます!


とは言っても、「悲劇の誕生」でも見たように(後述するように)、ニーチェにとって概念というのはなんというかおろそかされるものです。たとえば、「悲劇の誕生」においてアポロ的、ディオニュソス的という対立がポイントです。
とは言え、このディオニュソスというのはアンチクリストの別の名前です。
アポロとディオニュソスという対立するものが結婚することで、美しいギリシャ悲劇が生まれたという話ではなく、反キリスト教の書が悲劇の誕生です。

ここではディオニュソスではなくて良かったわけで、ツァラトゥストラも同様です。ゾロアスターとは何の関係もなく、ゾロアスター教とも何の関係もないニーチェオリジナルの思想が展開されています(とは言え、ただそれでもあえてツァラトゥストラという名前を実在のペルシャ人の名前を用いるのはザラスシュトラが「道徳を創造した(ニーチェ「この人を見よ」p.197)」からだと言っています)

これは別に僕の解釈でも感想や意見でもなんでもなく、ニーチェ本人もそう言っています。
この『ツァラトゥストラ』という著作は、まったく独自のものである。」(ニーチェ「この人を見よ」p.156)
この直後の文章にニーチェの誇大妄想的な自画自賛が続くのですが、それはあとで引用するとして、そもそも「この人を見よ(Esse homo)」からしてニーチェらしいと言えます。

Esse homoとはピラトのイエスに対する言葉です。

(引用開始)
イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。ヨハネ福音書19:5)(引用終了)

ニーチェは自分自身をイエスになぞらえているということです。
ニーチェは反キリスト教ですが、イエス自体はほとんど批判していません。
この点は大きなポイントです。ひどくざっくり言えば、ニーチェの思想とは反キリスト教であるということで、あっさりとくくれると思います。たとえば、ツァラトゥストラとはディオニュソス的ということです。そしてディオニュソス的とは反キリスト教ということです(そして彼は牧師の父と牧師の叔父たちとに囲まれて、宗教的な雰囲気の中で育ちました。フロイトに言わせれば、その家庭環境の抑圧からの解放がニーチェの思想なのかもしれませんw)。

ですが、反キリスト教でありながら、キリスト批判はかなり控え目です(というか彼にあってはソクラテスもプラトンもアリストテレスもゲーテもゴミのような扱いですw
ですから、キリストに対する批判の控え目さはニーチェにおいては特筆に値します。

その前にまずは激しいキリスト教批判から見てみましょう。このアンチキリストの立場がディオニュソス的ということです(これは「悲劇の誕生」の冒頭「自己批判の試み」に明確に書かれています。この「自己批判の試み」自体は初版から14年後、1886年に追記されました)。そしてツァラトゥストラとはディオニュソス的であるということです。
無理に定式化すれば、

ディオニュソス的=ツァラトゥストラ=反キリスト教

です。

ラッセルの西洋哲学史からの孫引きになりますが、ニーチェのパスカル批判がニーチェのキリスト教批判の見事なまとめになっています。

(引用開始)
「キリスト教の中で、われわれが闘いつつあるものは何であろうか? それはキリスト教が、強者の破滅を目指し、強者の意気を挫き、強者の疲労し衰弱せる瞬間を利用して、その誇りある確信を不安と良心の呵責に変えようと目指すことであり、またキリスト教がもっとも高貴なる諸本能を毒し、その強さや権力への意思が内向しみずからに手向かいするまで、すなわち強者が過剰な自己侮べつと自己ギセイとによって滅びるまで、その諸本能に病いを感染させるやり方を心得ていることである。そのように凄まじい滅び方のもっとも有名な例はパスカルなのだ。」
(引用終了)(バートランド・ラッセル「西洋哲学史3」p.758)

キリスト教が「強者の破滅を目指し、強者の意気を挫き、強者の疲労し衰弱せる瞬間を利用して、その誇りある確信を不安と良心の呵責に変えようと目指す」ものであり、「高貴なる諸本能を毒し、その強さや権力への意思が内向しみずからに手向かいするまで、すなわち強者が過剰な自己侮べつと自己ギセイとによって滅びるまで、その諸本能に病いを感染させる」という激烈な批判です。

いわゆる奴隷宗教という言い方に結実する内容です。

ただこのパスカル批判自体は正しいように思います。
パスカルは数学者とは思えないあの「賭け」によって信仰へ飛び込みます。いやそれまでも信仰は持っていたのでしょうが、科学者として数学者として生きることを放棄します。


*パスカル!

(引用開始)
考えてみよう、えらばなければならないのであるからには、どちらが君に関係が少ないかを考えてみよう。君は失うべき2つのもの、すなわち真と善を持っており、かけるべき2つのもの、すなわち君の理性と君の知識と君の幸福とを持っている。君の理性はどれか1つをえらんだとて傷つけられることにはならない。しかし君の幸福は?

神があるという表(おもて)をとってその得失を計ってみよう。2つの場合を見積もってみよう、もし君が勝つならば君は一切を得る、もし君が負けても君は何も失わない。それゆえためうことなく神はあるというほうに賭けたまえ。---それはすばらしい!
(引用終了)(パスカル「パンセ」233)

それゆえためうことなく神はあるというほうに賭けたまえ。」とパスカルに言われても、「Yes」とは言えません。

まぜっ返すとすれば、「神はサイコロを振らない」故に信仰においてもサイコロを振ってはいけないような気がします。いやコインを投げてはいけないというか。

パスカルはその知性を限界まで発揮して、無神論に到達して欲しかったと思います。

パスカルはニーチェと同じく、健康であった試しがありません。
ですから、星空を眺めて、宇宙の無限大の大きさに驚愕します。星空を投げてロマンチックな気分になる相手もいませんでした。

(引用開始)
結局、自然のなかで、人間とは何者なのだろう か。無限に比べれば無、無に比べれば全体、無と全体との中間。両極端を理解することからは限りなく隔てられているため、ものごとの終わりと始めとは、人間にとってはどうしようもなく、底知れぬ神秘のなかに隠されている。人間は、自分が引き出されてきた無をも、自分が呑み込まれていく無限をも、等しく見ることができない。(引用終了)

不健康な身体が不健康な思想を生むのか、その逆なのか、卵が先か鶏が先か、それとも両者は一体なのか、分かりませんが、ラッセル自体もこう言います。


*ラッセル!!

(引用開始)
ニーチェの酷評が正当に通用しうるような、あの種のタイプのキリスト教倫理が存在することは、承認しなければならない。パスカルとドストエフスキーーーーこれはニーチェ自身が用いている実例であるーーーとは、ともにその人徳の中に卑屈な何物かをもっている。パスカルは自分のすばらしい数学的知性を神のためにギセイにしたのであり、そのことによって神に、パスカルの病的な精神的拷問の宇宙的拡大であるところの、ある種の残忍性という属性を付与している。(引用終了)(ラッセルp.760)

ラッセルの言うように、パスカルは自分の才能を神のために犠牲にしたとは思います。


激しいキリスト教批判とその一端は実際に首肯しうることを見たところで、ニーチェがキリスト教とキリストを明確に分離している点を観たいと思います。
アンチクリストとはキリストのあとに出てくるキリストの対概念の名であり、シンプルに言えば悪魔のことです。

ニーチェの晩年の書である「アンチクリスト」の中にこうあります。

(引用開始)
使徒たちの小さな教団が、最もかんじんな点を理解しなかったことは明白である。イエスのような模範的な死に方、ルサンチマンの感情をことごとく超えたあの自由感、超越感を、かれらは理解しなかったのだ。・・・・・・かれらの心に勢いをもりかえしてきたのは、ほかでもない、もっとも非福音的な感情、復讐感である。このような死が事件の結末であってなるものか。かれらには『報復』『審判』が必要だった。だが、『報復』『刑罰』『審判する』こと以上に、非福音的なものがありうるだろうか!
(引用終了)(ニーチェ「アンチクリスト」)


*ムンクの描いたニーチェ

『報復』『刑罰』『審判する』こと以上に、非福音的なものがありうるだろうか!」とはニーチェらしからぬ、いや最もニーチェらしい言説です。
イエスはたしかに「剣を取るものは剣に滅びる」(マタイ26:52)と言いました。「復讐するは我にあり」とは、復讐するのは神の御業であり、お前は復讐するな、という意味です。


とは言え、いつもながら記事が脱線につぐ脱線で、元に戻れないので、主題だけを提示します。

冒頭に戻ります。

(引用開始)
わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り越えられるべきもあるものである。あなたがたは、人間を乗り越えるために、何をしたか。(略)
 人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。

(引用終了)(ニーチェ「ツァラトゥストラ」)


人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。」とニーチェは言います。ニーチェというかツァラトゥストラは言います。
そして、「超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。」と断言します。超人とは端的に言えば貴族です。高貴なる人のことです。そして生まれが高貴であるという意味で、以前は略奪者であったもの、殺人鬼であったものの末裔がニーチェにとっての理想です。

それはさておき、では我々はいつ猿を「哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱」と見たでしょうか?

ホイットマンのこんな詩があります。


*ウォルト・ホイットマンというと、アメリカのドラマのBreaking Badを思い出します。Breaking Badのハイゼンベルクはニーチェでした。


(引用開始)

ぼくは道を転じて、動物たちとともに暮らせるような気がする

 彼らはあんなに穏やかで、自足している

ぼくは立って、いつまでもいつまでも、彼らを観る

彼らは、おのれの身分のことでやきもきしたり、めそめそしたりしない

彼らは、暗やみの中で目覚めたまま罪をくやんで泣いたりしない

彼らは、神への義務を論じ立てて、ぼくに吐き気を催させたりしない

一匹だって、不満をいだかず、一匹だって、物欲に狂っているものはいない

一匹だって、仲間の動物や何千年も前に生きていた先祖にひざまずくものはいない

一匹だって、お上品ぶったり不幸だったりするやつは、広い地球のどこにもいない


(引用終了)(ウォルト・ホイットマン「ぼく自身の歌」第32歌)


これはバートランド・ラッセルの幸福論の冒頭に掲げられたものです。
猿に対して、ほかの動物に対して「哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱」という視点はありません。



ニーチェは非常に魅力的な哲学者です。哲学者というよりは預言者であり、文学者であると思います。ただその影響力は甚大です。そのニーチェの思想が世界に与えた影響は少なくないと思います。そしてそれは見事な予言の成就であり、思想の実現であったのかもしれませんが、しかしそれは明確に終わらせなければいけないと思います。ニーチェの思想を理解しきって、終わらせるというこです。


というわけで寺子屋「ニーチェの終わり」は来週追加開催です!

余白があまりにないのと、あと15分で寺子屋集中講座「物理学の風景」なのでここでおしまいにします!


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