3月の「はじめての気功」第2弾は3月31日(火)の開催です!
ただテーマが未定です(今日、明日には告知を出します)。
リニューアルした「はじめての気功」シリーズではやりたいことは多くあるのですが、決めかねています。
第1弾も多くの新規の方が来て頂いています。ありがたいことです。
新しい人に新しい気分で教えるとなるとやりたいことは山ほど出てきます。
人生をやり直している気分です(おおげさかっ)
(いや、これまでのメンバーも歓迎です(^^))
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ちなみに、この仕事をしていると多くの質問をいただきます。
「気功が良くわからない」、「気功技術の作り方が分からない」、「気功伝授が分からない」、、、
その気持はよくわかります。
僕もよくわかりません。分からないから日々実践しながら、考え続けています。
若き日のチョムスキーに大きな影響を与えたというレビューがあります。ハンス=ルーカス・テューバーという認知神経科学者で、のちのMITの脳科学・認知科学プログラム部門の主任でした。
事典のために書かれたその論文の冒頭は、チョムスキーによれば斯(か)くの如(ごと)くだったそうです。
(引用開始)
知覚と神経科学に関するレヴューを「知覚が何であるのかはよくわかりません」と始めて、「脳とはどんなものかよくわかりません」と言って終わるのは奇妙に見えるかも知れません。でもそれが事実なんです。
(引用終了)(チョムスキー「生成文法の企て」p.367)
その世界の第一人者が「知覚が何であるのかはよくわかりません」と始めて、「脳とはどんなものかよくわかりません」と言って終わるのです。
そしてこの考えをチョムスキーはもちろん肯定しています。
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知の間違った遠近法とも言うべき錯覚が僕らにはあります。
よく知らない遠いものについて人は力強く話すことできますが、知れば知るほど分からなくなります。
もちろんここでチョムスキーが指摘しているのは、認知にせよ脳にせよ言語にせよ、まだ学問の歴史は始まったばかりであり、物理学におけるガリレオ革命にあたるようなパラダイム・シフトすら起きていないということです。まだティコ・ブラーエたちがせっせと肉眼で天体観測しているレベルです。記述的なレベルということです。
気功も同様です。
気功の歴史は始まったばかりです。
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認知科学によって、ようやく気功が秘伝から、公開情報になったと僕らは認識しています。
しかし、では気功はどのようなものかを惑星の運行のように明瞭に(それが明瞭かはまだ議論がありますが)記述するまでには至っていません。
ただ伝統という泥の中からは浮かび上がってきたのが気功です。
伝統のままであれば、その家に生まれる以外に学ぶ術がないということですから。
ですから、気功とは何ですか?と問われると、分かれば分かるほど、「気功が何であるかは良くわかりません」と答えたくなります。
とは言え、気功を教えるということを標榜している以上は、なぞなぞのような回答ですまされるとは思っていません。
ですので、「まといのば」では当初から「気功とは何か」を問うのではなく、「気功をやる」ことにフォーカスしています。
自分自身で気を出してみて、気を感じること、そして他人に対して気を出して、他人から送られる気を感じること。そしてそのことで、素早く自分や相手の肉体が強烈に変化することを観察します。
気を送るとか、気を感じるというのはきわめて主観的になりがちです。
思い込みの世界に入りがちです。
思い込みに入らない方法は客観的な指標を持つことです。
たとえば、気を出すと、手の平がサラミ状になります。赤と白のブチブチした状態になります。
これは、いわば不随意的です。意識してサラミにはできません。
ですので、一つの客観的な指標です。
もしくは「まといのば」では気功における整形外科的テストとして前屈を多用します。
身体におきる変化のうちで、前屈ほど適しているものはありません。前屈は自分の意思では柔らかくなりません(固くはなりますがw)。
そして他の柔軟性の獲得と同じで、「前屈も一日にしてならず」です。年単位での努力が不可欠です。
それがもし即座に柔らかくなったら、魔法です。
気を流して本当に身体が脱力したなら、前屈も柔らかくなります。魔法が可能になるのです。
ですから、気の客観的な指標として前屈を多用します。
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前屈の即座の改善を自他ともに認めると、気という存在を想定せざるを得ないことになります。
チョムスキーはメンデルの例を出しましたが、遺伝子なりDNAなり染色体を知り得ない状況においても、発現した形態から考えて、何らかの代数的構造をそこに認めるざるを得ないのです。その構造が何によって担保されているのかは別としても。
気功もまだその段階です。気を想定せざるを得ないというだけです。
だから気功は正しいとか、未来の科学だなどと言うつもりはありません(言っていた時期もあるような気がしますがw)。
そうではなく、プラグマティックに「使えるものは使えばいい」のです。白猫でも黒猫でも黄猫でも赤猫でもネズミをとってくれる猫が良い猫なのです。
プランクかボーアか忘れましたが、我々は「理解する」という概念そのものから考え直す必要があります。
非常に抽象的に言えば、古いパラダイムからは新しいパラダイムは一切見えません。
どうやってパラダイムを移動したら良いかも、わかりません。
ですから、僕らとしては「やってみれば?」と言うしかないのです。
我々の目の前にはいつも蛇がいて、「このリンゴ食べてみない?」と聞いているのです。知の誘惑です。我々はいまいる楽園を追放され、いまいる神から永遠に離れることを知っていても、その禁断の果実が食べたいかを問われているのです(アップルパイにして食べてしまいましょう)。
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*アップルパイ
ですので、気功とは何か、気功技術とは何か、伝授とは何か、どうやって新しいオリジナルの気功技術を作ればいいのか、などを問わずに、やってみることです。
やるだけならおそらく誰でもできます(やりたいという意思があれば。あとは知性と情熱w)。
自分が気を出し、自分が気功技術を使いこなし、伝授を日常的にやり、そして必要にせまられてオリジナルの気功技術を作りながら、ふと考えた時にもしかしたらいま欲しい回答が得られるかもしれません。
そしてその考えるヒントになるのは、当然ながら圧倒的な知識量です。
「下手の考え休むに似たり」という諺があります。インプットが無いところで計算しても意味がありません。それはコンピュータを遊ばせているのと同じです。
少なくとも寺子屋レベルのインプットをしてから、計算をスタートさせましょう(^^)
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というわけで、リニューアルして本当にビギナー向けとなった「はじめての気功」をお楽しみに!!
講座告知が事前に分かる先行案内メーリングリスト(ほぼメルマガ)もあります!
ただテーマが未定です(今日、明日には告知を出します)。
リニューアルした「はじめての気功」シリーズではやりたいことは多くあるのですが、決めかねています。
第1弾も多くの新規の方が来て頂いています。ありがたいことです。
新しい人に新しい気分で教えるとなるとやりたいことは山ほど出てきます。
人生をやり直している気分です(おおげさかっ)
(いや、これまでのメンバーも歓迎です(^^))

ちなみに、この仕事をしていると多くの質問をいただきます。
「気功が良くわからない」、「気功技術の作り方が分からない」、「気功伝授が分からない」、、、
その気持はよくわかります。
僕もよくわかりません。分からないから日々実践しながら、考え続けています。
若き日のチョムスキーに大きな影響を与えたというレビューがあります。ハンス=ルーカス・テューバーという認知神経科学者で、のちのMITの脳科学・認知科学プログラム部門の主任でした。
事典のために書かれたその論文の冒頭は、チョムスキーによれば斯(か)くの如(ごと)くだったそうです。
(引用開始)
知覚と神経科学に関するレヴューを「知覚が何であるのかはよくわかりません」と始めて、「脳とはどんなものかよくわかりません」と言って終わるのは奇妙に見えるかも知れません。でもそれが事実なんです。
(引用終了)(チョムスキー「生成文法の企て」p.367)
その世界の第一人者が「知覚が何であるのかはよくわかりません」と始めて、「脳とはどんなものかよくわかりません」と言って終わるのです。
そしてこの考えをチョムスキーはもちろん肯定しています。

知の間違った遠近法とも言うべき錯覚が僕らにはあります。
よく知らない遠いものについて人は力強く話すことできますが、知れば知るほど分からなくなります。
もちろんここでチョムスキーが指摘しているのは、認知にせよ脳にせよ言語にせよ、まだ学問の歴史は始まったばかりであり、物理学におけるガリレオ革命にあたるようなパラダイム・シフトすら起きていないということです。まだティコ・ブラーエたちがせっせと肉眼で天体観測しているレベルです。記述的なレベルということです。
気功も同様です。
気功の歴史は始まったばかりです。

認知科学によって、ようやく気功が秘伝から、公開情報になったと僕らは認識しています。
しかし、では気功はどのようなものかを惑星の運行のように明瞭に(それが明瞭かはまだ議論がありますが)記述するまでには至っていません。
ただ伝統という泥の中からは浮かび上がってきたのが気功です。
伝統のままであれば、その家に生まれる以外に学ぶ術がないということですから。
ですから、気功とは何ですか?と問われると、分かれば分かるほど、「気功が何であるかは良くわかりません」と答えたくなります。
とは言え、気功を教えるということを標榜している以上は、なぞなぞのような回答ですまされるとは思っていません。
ですので、「まといのば」では当初から「気功とは何か」を問うのではなく、「気功をやる」ことにフォーカスしています。
自分自身で気を出してみて、気を感じること、そして他人に対して気を出して、他人から送られる気を感じること。そしてそのことで、素早く自分や相手の肉体が強烈に変化することを観察します。
気を送るとか、気を感じるというのはきわめて主観的になりがちです。
思い込みの世界に入りがちです。
思い込みに入らない方法は客観的な指標を持つことです。
たとえば、気を出すと、手の平がサラミ状になります。赤と白のブチブチした状態になります。
これは、いわば不随意的です。意識してサラミにはできません。
ですので、一つの客観的な指標です。
もしくは「まといのば」では気功における整形外科的テストとして前屈を多用します。
身体におきる変化のうちで、前屈ほど適しているものはありません。前屈は自分の意思では柔らかくなりません(固くはなりますがw)。
そして他の柔軟性の獲得と同じで、「前屈も一日にしてならず」です。年単位での努力が不可欠です。
それがもし即座に柔らかくなったら、魔法です。
気を流して本当に身体が脱力したなら、前屈も柔らかくなります。魔法が可能になるのです。
ですから、気の客観的な指標として前屈を多用します。

前屈の即座の改善を自他ともに認めると、気という存在を想定せざるを得ないことになります。
チョムスキーはメンデルの例を出しましたが、遺伝子なりDNAなり染色体を知り得ない状況においても、発現した形態から考えて、何らかの代数的構造をそこに認めるざるを得ないのです。その構造が何によって担保されているのかは別としても。
気功もまだその段階です。気を想定せざるを得ないというだけです。
だから気功は正しいとか、未来の科学だなどと言うつもりはありません(言っていた時期もあるような気がしますがw)。
そうではなく、プラグマティックに「使えるものは使えばいい」のです。白猫でも黒猫でも黄猫でも赤猫でもネズミをとってくれる猫が良い猫なのです。
プランクかボーアか忘れましたが、我々は「理解する」という概念そのものから考え直す必要があります。
非常に抽象的に言えば、古いパラダイムからは新しいパラダイムは一切見えません。
どうやってパラダイムを移動したら良いかも、わかりません。
ですから、僕らとしては「やってみれば?」と言うしかないのです。
我々の目の前にはいつも蛇がいて、「このリンゴ食べてみない?」と聞いているのです。知の誘惑です。我々はいまいる楽園を追放され、いまいる神から永遠に離れることを知っていても、その禁断の果実が食べたいかを問われているのです(アップルパイにして食べてしまいましょう)。

*アップルパイ
ですので、気功とは何か、気功技術とは何か、伝授とは何か、どうやって新しいオリジナルの気功技術を作ればいいのか、などを問わずに、やってみることです。
やるだけならおそらく誰でもできます(やりたいという意思があれば。あとは知性と情熱w)。
自分が気を出し、自分が気功技術を使いこなし、伝授を日常的にやり、そして必要にせまられてオリジナルの気功技術を作りながら、ふと考えた時にもしかしたらいま欲しい回答が得られるかもしれません。
そしてその考えるヒントになるのは、当然ながら圧倒的な知識量です。
「下手の考え休むに似たり」という諺があります。インプットが無いところで計算しても意味がありません。それはコンピュータを遊ばせているのと同じです。
少なくとも寺子屋レベルのインプットをしてから、計算をスタートさせましょう(^^)

というわけで、リニューアルして本当にビギナー向けとなった「はじめての気功」をお楽しみに!!
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