本日、寺子屋「チョムスキー」開催です!
チョムスキーを学ぶにあたって前提となる知識を整理しましょう!
チョムスキーを中心として言語学を学ぶわけですが、まずその「言語」という概念が我々が想定する言語とは異なります。
言語と言ったときに我々が想起するのは日本語であったり、英語であったり、韓国語や中国語、ラテン語、ギリシャ語などの外在物を想定します。
人間の外に存在すると無邪気に想定する客観的な存在としての言語です。書かれた言語や、発話された言語は客観的に観測可能です。
これをE言語(E-language)といいます。extensional(外延的)な言語です(もしくはextenalized)
それに対してチョムスキーが扱う言語はI言語です。intentional(内包的)な言語です(もしくはintenalized内在化された)。
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*偉大なるチョムスキー!
このE言語とI言語の対立軸がまず第一のポイントです。
行動主義心理学やアメリカ構造主義言語学は、その理念通りに「直接観察可能な現象」を研究対象としました。ですから、必然的に外在的なものとして言語を考えました。直接観察可能であり客観的な言語現象を取り扱うことで、科学たろうとしました。
ただこの試みは無残に失敗に終わります。
これは寺子屋「心理学」などでも扱った通りです。
歴史に謙虚に学ぶのであれば、E言語を言語と見なしてそれを研究課題にするのはナンセンスということです。
では、I言語とは何でしょう?
I言語とは内なる言語です。言語能力なり、言語知識のことです。
I言語について定義を二つほど。一つは「人間が(主に)心/脳(mind/brain)の内に持っている言語能力(linguistic competence)」(p.2)もう1つは「母語話者が(主に)脳の内に持っている。その母語に関する知識=その言語を母語として話せるための(基礎)能力」(p.4)です。
次に普遍文法と個別文法について定義していきます。
チョムスキーのそしてチョムスキー以降の言語学の1つの明確なテーゼは「様々な言語は、基本的には全て同一の鋳型に基づいて作られており、言語間には、あるとしてもわずかな違いしか存在しない。そうでなければ言語獲得の問題を解決することは不可能である」(p.289)ということです。
ここで言われる同一の鋳型が普遍文法です。
ポイントはなぜ赤ん坊が非常に粗雑で十分ではない量のデータをもとに母国語を獲得するのかということです。すなわち言語獲得の問題です。
我々が無邪気に考えると、大量に言語を聞けば脳が勝手に統計的に処理してくれて、そこから文法を獲得できると考えがちです。「聞き流せば英語が話せるようになる!」という盲信と同じです。
赤ん坊にとって周りで話されており、話しかけられる音を一次言語データと呼びます。
我々は何を間違ったのか、一次言語データからE言語が獲得できる(聞き流せば英語が話せる)と思いがちです。
一次言語データ → E言語
いや、発話したり書いたりするE言語ではなく、I言語と考えるとこうなります。
一次言語データ → I言語 → E言語
しかし、赤ん坊の言語獲得を考えると、一次言語データはあまりに質が悪く、そして圧倒的に量が足りません。それにも関わらず圧倒的な短期間で習得できます。
ここで次のような想定が生まれます。
すなわち、一次言語データ → 人間の脳 → 言語知識(I言語)
です。
すなわち、人間の脳になる何らかの心的器官(mental organ)にそもそも鋳型となる普遍文法があり、それが一次言語データと交わることでI言語が構成されます。
何らかの心的器官(mental organ)のことを言語機能(language faculty)と呼びますが、我々の言語獲得のレシピにおける材料は二つということです。
1つは環境からの一次言語データ、そしてもう一つが生得的な心的器官(言語機能)です。言語機能の中核にあるのが普遍文法というアルゴリズムです。
文法という点で考えると、最初に脳の中にあるのが、普遍文法です。
なぜ普遍というかと言えば、人間である限り等しく持つからです。なぜ等しく持つと言えるかと言えば、人間である限り、それぞれの言語を持つ社会にいれば、確実に1つ以上の母国語を習得するからです。そして、その言語獲得を考える上では、環境からの一次言語データはあまりに足りません。これを「刺激の欠乏(poverty of the stimulus)」と言います。
普遍文法しか持たないタブラ・ラサな赤ん坊の状態を「初期状態」と呼び、言語獲得の時期を経て、「安定状態」になって言語獲得が終了します。母国語をマスターしたということです。
一次言語データ → 言語機能(普遍文法) → I言語(個別文法)
という流れです。
一次言語データだけI言語を獲得するには刺激の欠乏であり、普遍文法だけでは言語は獲得できません。この両輪があってこそ、言語獲得が可能です。
言語機能の初期状態から、一次言語データという材料を得て、つくられるのがI言語です。
言語機能の初期状態の文法を普遍文法、I言語の文法を個別文法と言います。
「生成文法の企て」の訳者による序説から引用します。
(引用開始)
文法がその対象である言語知識(I言語)を正しく記述できている時、その文法は「記述的妥当性」(descriptive adequacy)を満たすと言う。これに対し、普遍文法(従来、「一般言語理論(general linguistic)という名称が用いられることもあった)が、一次言語データに基づいて、与えられた言語知識(I言語)に関する記述的に妥当な文法を選択できる時、普遍文法は「説明的妥当性」(explanatory adequency)を満たすとされる。(pp.10-11)(引用終了)
ここで明確にすべきは、I言語は記述的妥当性とヒモ付られ、普遍文法が説明的妥当性とリンクするということです。なぜ、ここで記述的妥当性やら、説明的妥当性という用語を知らないといけないかと言えば、この説明的妥当性があとで肝になってくるからです。
一旦、整理しましょう。
I言語 ーー 記述的妥当性
普遍文法 ーー 説明的妥当性
です!
ちなみに、「一次言語データに基づいて、与えられた言語知識(I言語)に関する記述的に妥当な文法を選択できる」と「選択」とあえて書かれているのは、以下の理由によります。
すなわち、「与えられた一次言語データに関して記述的に妥当な文法は複数個存在すると考えられており、普遍文法がこれらの文法のうち「より良い」文法を選ぶ手段を提供することが、その務め(の一部)であると考えられていたからである。(p.11)
ポイントになるのは、なぜ鋳型(普遍文法)は1つなのに、言語はこれほど多様なのかということです。
普遍性と多様性のパラドックスです。それを解く鍵が「原理・パラメータモデル」です。
整理しましょう。
子供の脳というコンピュータシステムは質の極めて悪いS/N比が最悪の一次言語データをつめ込まれても、なぜかきわめて短期間に言語を習得します。それも教わっていないような高度な文法も習得します。よほどの例外をのぞき、この能力はすべての人間に備わっているように見えます。すなわち普遍的な能力ということです。この能力は生物学的な能力であり、器官です。
一次言語データ → 言語機能 → I言語 (→E言語)
(刺激の欠乏) (普遍文法) (個別文法)
これらの議論を前提として、もう一つ飛翔しましょう。
ミニマリズムへと移行します。
序説から再び引用します。
(引用開始)
その後、原理・パラメータモデルの誕生と共に普遍文法の理論が整備され、説明的妥当性を持つ一般言語理論の構築に向けて理論の一般化・抽象化が行われるに伴って、ちょうど、それまで個別文法の規則として述べられていた言語現象が普遍文法の原理から導き出されるということが示されたのと同様に、それまで言語固有の特性として述べられていた特性を、もう少し一般性の高い原理から導き出すことができるかも知れない、という可能性が考慮されるに至った。個別文法から普遍文法への研究焦点の移行が原理・パラメータモデルの誕生によって象徴されるとするならば、後者の動きは、いわゆる「極小主義」(minimalist problem, minimalist model, minimalism 等と呼ぶ)の勃興(一九九〇年前後)に伴って徐々に強まってきた傾向であると言って良いだろう。(pp.18-19)(引用終了)
極小主義(ミニマリズム)によって「言語固有の特性として述べられていた特性を、もう少し一般性の高い原理から導き出すことができるかも知れない」という可能性が見えてきたということです。
寺子屋「チョムスキー」の大きなポイントの1つです(もう一つは言うまでもなく原理・パラメータモデルです。その生物学的な側面がポイントです。チョムスキーはこう書いています。「固定された諸原理とパラメータが相互作用して個々の言語を生み出していく様式というのは、ちょうど生体の発生における調節機構の働き方と酷似している(略)他の点では固定された遺伝システムにおける調節機構の微細な変化が、表面的には非常に大きな違いをもたらすことがあるのです。小さな調節機構をわずかに修正するだけで、その結果が蝶になったり象になったりというように、表面的にはとても大きな違いとして現れてくるのです」(p.291)
言うまでもないでしょうが、これが原理の普遍性とI言語の多様性の理由につながるということです。
この生物学的な視点というのは、極小主義においても重要です。寺子屋ではチョムスキーの「脊椎と雪の結晶」を例に出しました。なぜ生物学的な視点かと言えば、言語機能というのは器官だからです。理想的なコンピュータプログラムではなく、進化論的に発展してきた器官なのです。雪の結晶ではなく、不格好な脊椎ということです)
というわけで、これらの前提知識を確認した上で、寺子屋に臨んでいただければより分かりやすいかと思います。
整理しましょう!
英語や日本語というようなE言語(外在的な言語)ではなく、心/脳の内にあるI言語(内在的な言語)を題材にした学問であり、そのI言語は一次言語データと普遍文法を有する言語機能(心的器官)が交じり合うことで(原理・パラメータ)で素早く獲得される。
ですから、一次言語データだけで脳が統計的に処理を行うというモデル自体は(今もさかんに研究されていますが)、ずいぶんと前に科学的に否定されたということです(Google翻訳はご承知のとおり、機械処理ではなく、人間の投票に基づいたビッグデータの統計処理です。システムの中に人間の脳と認知もすでに組み込まれています。そして彼ら機械は言葉の意味を理解するのではなく、横のものを縦にするだけです、今のところは)。
では、その普遍文法はどのように形式化されるかと言えば、それがミニマリズムの課題です。
そして形式化するには数学という道具は不十分かもしれないというのが、チョムスキーの結論のように思います(これらの後半についてはまたブログで書きます。寺子屋では扱います)。
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*知の壁を突き破りましょう!
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チョムスキーを学ぶにあたって前提となる知識を整理しましょう!
チョムスキーを中心として言語学を学ぶわけですが、まずその「言語」という概念が我々が想定する言語とは異なります。
言語と言ったときに我々が想起するのは日本語であったり、英語であったり、韓国語や中国語、ラテン語、ギリシャ語などの外在物を想定します。
人間の外に存在すると無邪気に想定する客観的な存在としての言語です。書かれた言語や、発話された言語は客観的に観測可能です。
これをE言語(E-language)といいます。extensional(外延的)な言語です(もしくはextenalized)
それに対してチョムスキーが扱う言語はI言語です。intentional(内包的)な言語です(もしくはintenalized内在化された)。

*偉大なるチョムスキー!
このE言語とI言語の対立軸がまず第一のポイントです。
行動主義心理学やアメリカ構造主義言語学は、その理念通りに「直接観察可能な現象」を研究対象としました。ですから、必然的に外在的なものとして言語を考えました。直接観察可能であり客観的な言語現象を取り扱うことで、科学たろうとしました。
ただこの試みは無残に失敗に終わります。
これは寺子屋「心理学」などでも扱った通りです。
歴史に謙虚に学ぶのであれば、E言語を言語と見なしてそれを研究課題にするのはナンセンスということです。
では、I言語とは何でしょう?
I言語とは内なる言語です。言語能力なり、言語知識のことです。
I言語について定義を二つほど。一つは「人間が(主に)心/脳(mind/brain)の内に持っている言語能力(linguistic competence)」(p.2)もう1つは「母語話者が(主に)脳の内に持っている。その母語に関する知識=その言語を母語として話せるための(基礎)能力」(p.4)です。
次に普遍文法と個別文法について定義していきます。
チョムスキーのそしてチョムスキー以降の言語学の1つの明確なテーゼは「様々な言語は、基本的には全て同一の鋳型に基づいて作られており、言語間には、あるとしてもわずかな違いしか存在しない。そうでなければ言語獲得の問題を解決することは不可能である」(p.289)ということです。
ここで言われる同一の鋳型が普遍文法です。
ポイントはなぜ赤ん坊が非常に粗雑で十分ではない量のデータをもとに母国語を獲得するのかということです。すなわち言語獲得の問題です。
我々が無邪気に考えると、大量に言語を聞けば脳が勝手に統計的に処理してくれて、そこから文法を獲得できると考えがちです。「聞き流せば英語が話せるようになる!」という盲信と同じです。
赤ん坊にとって周りで話されており、話しかけられる音を一次言語データと呼びます。
我々は何を間違ったのか、一次言語データからE言語が獲得できる(聞き流せば英語が話せる)と思いがちです。
一次言語データ → E言語
いや、発話したり書いたりするE言語ではなく、I言語と考えるとこうなります。
一次言語データ → I言語 → E言語
しかし、赤ん坊の言語獲得を考えると、一次言語データはあまりに質が悪く、そして圧倒的に量が足りません。それにも関わらず圧倒的な短期間で習得できます。
ここで次のような想定が生まれます。
すなわち、一次言語データ → 人間の脳 → 言語知識(I言語)
です。
すなわち、人間の脳になる何らかの心的器官(mental organ)にそもそも鋳型となる普遍文法があり、それが一次言語データと交わることでI言語が構成されます。
何らかの心的器官(mental organ)のことを言語機能(language faculty)と呼びますが、我々の言語獲得のレシピにおける材料は二つということです。
1つは環境からの一次言語データ、そしてもう一つが生得的な心的器官(言語機能)です。言語機能の中核にあるのが普遍文法というアルゴリズムです。
文法という点で考えると、最初に脳の中にあるのが、普遍文法です。
なぜ普遍というかと言えば、人間である限り等しく持つからです。なぜ等しく持つと言えるかと言えば、人間である限り、それぞれの言語を持つ社会にいれば、確実に1つ以上の母国語を習得するからです。そして、その言語獲得を考える上では、環境からの一次言語データはあまりに足りません。これを「刺激の欠乏(poverty of the stimulus)」と言います。
普遍文法しか持たないタブラ・ラサな赤ん坊の状態を「初期状態」と呼び、言語獲得の時期を経て、「安定状態」になって言語獲得が終了します。母国語をマスターしたということです。
一次言語データ → 言語機能(普遍文法) → I言語(個別文法)
という流れです。
一次言語データだけI言語を獲得するには刺激の欠乏であり、普遍文法だけでは言語は獲得できません。この両輪があってこそ、言語獲得が可能です。
言語機能の初期状態から、一次言語データという材料を得て、つくられるのがI言語です。
言語機能の初期状態の文法を普遍文法、I言語の文法を個別文法と言います。
「生成文法の企て」の訳者による序説から引用します。
(引用開始)
文法がその対象である言語知識(I言語)を正しく記述できている時、その文法は「記述的妥当性」(descriptive adequacy)を満たすと言う。これに対し、普遍文法(従来、「一般言語理論(general linguistic)という名称が用いられることもあった)が、一次言語データに基づいて、与えられた言語知識(I言語)に関する記述的に妥当な文法を選択できる時、普遍文法は「説明的妥当性」(explanatory adequency)を満たすとされる。(pp.10-11)(引用終了)
ここで明確にすべきは、I言語は記述的妥当性とヒモ付られ、普遍文法が説明的妥当性とリンクするということです。なぜ、ここで記述的妥当性やら、説明的妥当性という用語を知らないといけないかと言えば、この説明的妥当性があとで肝になってくるからです。
一旦、整理しましょう。
I言語 ーー 記述的妥当性
普遍文法 ーー 説明的妥当性
です!
ちなみに、「一次言語データに基づいて、与えられた言語知識(I言語)に関する記述的に妥当な文法を選択できる」と「選択」とあえて書かれているのは、以下の理由によります。
すなわち、「与えられた一次言語データに関して記述的に妥当な文法は複数個存在すると考えられており、普遍文法がこれらの文法のうち「より良い」文法を選ぶ手段を提供することが、その務め(の一部)であると考えられていたからである。(p.11)
ポイントになるのは、なぜ鋳型(普遍文法)は1つなのに、言語はこれほど多様なのかということです。
普遍性と多様性のパラドックスです。それを解く鍵が「原理・パラメータモデル」です。
整理しましょう。
子供の脳というコンピュータシステムは質の極めて悪いS/N比が最悪の一次言語データをつめ込まれても、なぜかきわめて短期間に言語を習得します。それも教わっていないような高度な文法も習得します。よほどの例外をのぞき、この能力はすべての人間に備わっているように見えます。すなわち普遍的な能力ということです。この能力は生物学的な能力であり、器官です。
一次言語データ → 言語機能 → I言語 (→E言語)
(刺激の欠乏) (普遍文法) (個別文法)
これらの議論を前提として、もう一つ飛翔しましょう。
ミニマリズムへと移行します。
序説から再び引用します。
(引用開始)
その後、原理・パラメータモデルの誕生と共に普遍文法の理論が整備され、説明的妥当性を持つ一般言語理論の構築に向けて理論の一般化・抽象化が行われるに伴って、ちょうど、それまで個別文法の規則として述べられていた言語現象が普遍文法の原理から導き出されるということが示されたのと同様に、それまで言語固有の特性として述べられていた特性を、もう少し一般性の高い原理から導き出すことができるかも知れない、という可能性が考慮されるに至った。個別文法から普遍文法への研究焦点の移行が原理・パラメータモデルの誕生によって象徴されるとするならば、後者の動きは、いわゆる「極小主義」(minimalist problem, minimalist model, minimalism 等と呼ぶ)の勃興(一九九〇年前後)に伴って徐々に強まってきた傾向であると言って良いだろう。(pp.18-19)(引用終了)
極小主義(ミニマリズム)によって「言語固有の特性として述べられていた特性を、もう少し一般性の高い原理から導き出すことができるかも知れない」という可能性が見えてきたということです。
寺子屋「チョムスキー」の大きなポイントの1つです(もう一つは言うまでもなく原理・パラメータモデルです。その生物学的な側面がポイントです。チョムスキーはこう書いています。「固定された諸原理とパラメータが相互作用して個々の言語を生み出していく様式というのは、ちょうど生体の発生における調節機構の働き方と酷似している(略)他の点では固定された遺伝システムにおける調節機構の微細な変化が、表面的には非常に大きな違いをもたらすことがあるのです。小さな調節機構をわずかに修正するだけで、その結果が蝶になったり象になったりというように、表面的にはとても大きな違いとして現れてくるのです」(p.291)
言うまでもないでしょうが、これが原理の普遍性とI言語の多様性の理由につながるということです。
この生物学的な視点というのは、極小主義においても重要です。寺子屋ではチョムスキーの「脊椎と雪の結晶」を例に出しました。なぜ生物学的な視点かと言えば、言語機能というのは器官だからです。理想的なコンピュータプログラムではなく、進化論的に発展してきた器官なのです。雪の結晶ではなく、不格好な脊椎ということです)
というわけで、これらの前提知識を確認した上で、寺子屋に臨んでいただければより分かりやすいかと思います。
整理しましょう!
英語や日本語というようなE言語(外在的な言語)ではなく、心/脳の内にあるI言語(内在的な言語)を題材にした学問であり、そのI言語は一次言語データと普遍文法を有する言語機能(心的器官)が交じり合うことで(原理・パラメータ)で素早く獲得される。
ですから、一次言語データだけで脳が統計的に処理を行うというモデル自体は(今もさかんに研究されていますが)、ずいぶんと前に科学的に否定されたということです(Google翻訳はご承知のとおり、機械処理ではなく、人間の投票に基づいたビッグデータの統計処理です。システムの中に人間の脳と認知もすでに組み込まれています。そして彼ら機械は言葉の意味を理解するのではなく、横のものを縦にするだけです、今のところは)。
では、その普遍文法はどのように形式化されるかと言えば、それがミニマリズムの課題です。
そして形式化するには数学という道具は不十分かもしれないというのが、チョムスキーの結論のように思います(これらの後半についてはまたブログで書きます。寺子屋では扱います)。

*知の壁を突き破りましょう!
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