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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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「未来は確定しており、過去はいくらでも変えられる」という確信

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「未来は確定しており、過去はいくらでも変えられる」という確信が重要かな~と思います。

「確定している未来」というのはもちろん運命!などというものではなく、自分の手帳に自分で書き込んだゴールのことです。

毎朝、目覚まし時計が鳴って起きなければいけないように、我々の人生も確定した未来がすでにあり、目覚まし時計が鳴っています(永遠にスヌーズを繰り返しても良いのですが)。




なぜ我々が目覚まし時計をかけて寝るのでしょうか、そして、なぜ目覚まし時計に従って起きるのかと言えば、それは未来が高い蓋然性で確定しているからです。学校の登校時間かもしれませんし、会社の出勤時間かもしれません、大事な約束かもしれませんし、遊びの予定かもしれませんがいずれにせよ未来は確定しており(もしくは、そのような感覚を強く持っており)、それに従って、そこからの逆算で現在の行動を決めます。

目覚まし時計をかけるのは普通なことであっても、ゴールから逆算するという発想はなかなか馴染まないようです。しかしこれは単純に慣れの問題です。

牧歌的な赤ん坊の時代が終り、保育園や幼稚園に通いだしたときのことを思い出してみましょう。毎朝起きなければいけない理不尽さに向き合ったのではないでしょうか(赤ん坊時代が牧歌的というのも幻想ですが)。

しかし毎日が日曜日だとよほどのことがない限り人間はおかしくなります。

自由とは、自ら進んで牢獄に入ることです。

カントの言う道徳法則ですね。定言命法です。
その意味でソクラテスはいつも自由でした。死ぬときも彼が自由であったのは、彼が喜んで牢屋に入り、喜んで毒杯をあおいだからです(というのはエピクテートスの受け売りです)。

自由というのは自分で目覚まし時計をセットすることです。


余談ですが、教育システムは新しくするべきだと言われ、一斉授業ではなく、個別にたとえばインターネットなどを利用して自由に学べばいいという言説が多く見られます。僕もかつてはそう思っていましたし、「気持ちは分かる」という感じがします。

でもそれは機能しないと思います。

それでうまくいくのはよほど天才だけかと。

よほどの強烈なゴールがない限りは、集団で学ぶほうが確実です。我々は群れなす動物の末裔なのです。孤独では生きていけません。少なくとも、孤独では学ぶことも難しいのです。

いや、逆に学びにおいて孤独も必要です。アタマを使うときは、孤独であるべきです。それはそうなのですが、独りでアタマを使いギリギリまで考えたものを、集団でシェアすることで、フィードバックが得られます。真に意味のある思考だったのか、それとも無意味な妄想の暴走だったのかは、他者との関係の中ではじめて明らかになります。

僕もしばしば言ってしまうのですが、たとえば課題を渡されたらそれは入試のように1人で解くのではなく、グループで解きましょう、という考え方があります。
実社会ではグループでいかに協調するかが大きな割合を占めるからです。
宿題は集団で解きましょう、というやつです。

しかし、これもまた機能しません。

結論から言えば、誰の力も頼ることなど本質的にはできないということを知った人同士しか、協力できないからです。


ママ・パパが必ず助けてくれると思っているお子様が一向に成長しないのと同じです。誰の助けも得られないと気付いたときに、人は成長を始めます。

その意味でイニシエーションは大切です。

とは言え、ジョセフ・キャンベル(神話の力)の意味での、かつての暴力的なイニシエーションは問題外です(この点において、僕は彼に批判的です)。
たとえば入学試験などは良いイニシエーションであると思います(機能しているかどうかは別として)(就活はよくわかりませんが、婚活に至っては意味不明ですが)。
舞台もそうでしょう。
舞台にでたら誰も助けてくれません。

誰も助けてくれない、自分すらあてにならないという恐怖からはじめて、それが諦観に至ってはじめてその人間は使い物になる人間になります。共同体のために生きることができるのです(ちなみに、アリストテレスに全面的に僕は賛成で、共同体の中にいないものは神か獣だと思います)。

真に孤独なもののみが連帯できる、と言ったのは高橋和巳だったように思うのですが、馴れ合いとは違い、烏合の衆とも違う、自律した個人が出会うことで協力できます。

孤独の中で考え、集団の中でその客観性や妥当性を問い続けるという往復がポイントかと思います。

ですから、その意味でも教育制度の変更は難しいのです。


ただ、教育制度の改革は遅々として進まなくても構わないのです、IT革命が明らかに教育というアンシャン・レジームを骨抜きにしてくれます。それはITを教育に活用などという話とは別次元で(サルに電子黒板を渡したところで、残虐な画像を見せるくらいの活用法しか思いつきません)、知の水準を底上げする可能性があります(可能性だけです。実際に起きているのは、極端な知識水準格差です。「ググレカス」という言葉がありますが、Googleで検索して知ることができるのは、すでに知っていることだけです。知らないことは検索できず、見えないのです。ですから、マタイ効果が働きます。賢い人はますます賢く)。


話が逸れました。

「未来は確定しており、過去はいつでも変えられる」というのは重要な視点です。

現状の外でなおかつWant toであるようなゴールはすでに可能世界において達成済です。
達成しているからこそ、そこから時間が流れてくるので、逆算して目覚まし時計をかけます。

遊園地にデートで行くと言ったばあいにすでにそのデートは完了しているのです。そこから逆算して、朝、目を覚ますのです。夜、嬉しくて興奮してどれほど眠れなくても、目覚ましで置きるのです。いや目覚まし時計の前に内なる目覚まし時計で起きるかもしれません。

逆に過去は自在に変えられます。

スピリチュアリズムをつぎつぎに放浪してきた過去を悔やんでいて、「まといのば」に来られて、これまで私は何をしていたのだろう」と絶望される方は多くいらっしゃいます(もちろんその逆もあるでしょう)。

過去を変えたいと思う人も多くいるでしょうが、過去は変えられます。
もちろん事実ベースを変えるわけではありません。

気功師として開業したときに、スピリチュアリズムの放浪が大きな財産になります。第一にスピの臨場感を持つことができます。スピにはまったことがない人には、スピの臨場感がありません。しかし放浪していた人にはなぜはまるのか、どんな世界観なのかを共有できます。共有できればラポールが生じます。第二に、スピの問題点を高い臨場感で示せます。第三に、そのスピからいかに脱出するかの道筋も示せます。

躓いたことがない人はその痛みを知らないのです。

つまづきはそれを乗り越えれば財産となります。

たとえば、そのように過去を呪縛から財産に変えることができます。あたかも鉛を金に変えるように。

これが、「未来は確定しており、過去はいくらでも変えられる」のカラクリです。

そして重要な視点です。特に我々は未来は無限の可能性があり、過去は確定していると思っています。


僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る
(高村光太郎「道程」)


と考えがちですが、逆だということです。

一寸先は闇なのです、後ろ向きに。


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