寺子屋「悪魔学」では、キリスト教は善のみの一元論であると学びました。
なぜ善一元論を採用したかと言えば、おそらくはゾロアスター教、グノーシスと言った古参の恐ろしい二元論の先輩たちが後ろに控えていたためではないかと思います。
新興勢力としては、新味を出さなければ、と。
ちなみに、二元論の前は多元論ですね。ギリシャ神話もローマ神話も八百万神(やおろずの神)も多神教の神話です。多元論というか多神教になると神様と人間の区別もずるずるになってきます。明確な区別がつかなくなってきます。
ということで整理するとこうなるのでしょうか。
多元論(多神教) → 二元論(善と悪) → 一元論(唯一神) → 汎神
形式化すると…
n → 2 → 1 → 0
という感じかもしれません。0というのは無神論という意味ではなくですね。
(サンスクリット語: शून्य, śūnya[シューニャ]は「空」であり、0ですね。とは言え、空は無ではありません)
というわけで一元論です。唯一絶対の神です。善なる神です(そりゃ、神は善だろうと思うのは早計です。グノーシスでは創造神は神だけど悪魔です。サマエルです。この世界、この宇宙は悪魔がつくった悪い世界なのです。たしかに納得できる面もありますw)
唯一絶対の神とはいえ、しかし、実際は世界は善だけではありえず、悪の存在に目をそらすことはできません。
そこで、悪をどう捉えるかに苦心するというのは、悪魔学のポイントです。もちろん神学のテーマでもありました。ちなみに、悪魔学は定義上、神学よりはるかに長いものです。キリスト教神学がスタートする前からずっと悪魔は存在します。
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創世記(旧約聖書)の冒頭にこうあります。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
創世記の冒頭から、天と地の二元論、光と闇の二元論が現れます(光と闇の二元論と闘いは、ゾロアスター教でもグノーシスでも大きなテーマです)。光と闇というのは対概念と考えられていました。ちなみに、いまはいわば光一元論です。光が少ないところを闇と呼んでいます。
ゲーテはその色彩論において、光と闇が交じり合うことで「色」が生じると考えていました。詩的には美しいのですば、物理学的には同時代のニュートンが正しいと言えます。プリズムで「虹を解体」(キーツ)したニュートンが正しいのです。光のアトムをいわば発見しました(どうやって?分光された光を再び解剖しようとプリズムを通したのです。そうやっても、分光しないことから、逆に白色光こそが様々な色彩の光が集まったものであると喝破しました)。
*ここらへんの話は、先月の「寺子屋・現代物理学集中講座」の内容ですね。
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*プリズム!
この二元論が止揚するのは、三位一体においてです。
奇数が男性で、偶数が女性を意味するというのは、中国でも、古代ギリシャでも変わらないようで(ユングによれば)、ピタゴラスは2を女性、3を男性と考え、2+3=5を結婚の象徴と考えていました。
1は奇数であり男性性で、2は偶数で女性性です。
ちなみに、いま数秘術をやりたいわけではありませんw。ただの紹介です。
とすると、一元論の神が(一なる神が)、光と闇、天と地という二元論(女性の2)に分割していて済むはずがありません。男尊女卑なのがキリスト教の持ち味です(イエスはマグダラのマリアには優しかったのですが)、ですから三位一体の3を持ち出すことで、男性(奇数)から女性(偶数)へ移動したものを再び3の男性(奇数)に戻します。
という話をアルケミアのスクールではユングを引きながら考えました。
冒頭の亀裂とは、創世記の亀裂のことです。
(引用開始)
キリスト的象徴の見地からすれば、世界には一つの「亀裂」が走っており、これが世界を分断している。つまりは光は闇と闘い、天界が下界と闘う。心的元型の場合とは異なって、これら二つのものは一つのものではない。キリスト教の狭義はこのように、二は一であるという思想を忌避しているが、しかしその実際の宗教活動においては、教父の寓喩に触れた箇所ですでに見たように、心理学における自然そのままの象徴、すなわち対立を止揚して一つのものとなっている個我象徴に近いものが用いられている。さらにまた教義は、三は一であると主張するが、四は一であるということには異を唱える。奇数は周知のごとく古くから、わが西洋においてばかりでなく、中国においても男性を表すものとされ、偶数は女性を表すものとされてきた。従って三位一体は紛うかたない男性的神性を意味しており、キリストの両性具有も聖母マリアの特別の地位と神聖視も、決してこれに比肩しうるものではない。
以上のようなことをわざわざ確認するのは、読者にいささか奇異の感じを与えたかも知れないが、実はこのような確認を経ることによってわれわれは、錬金術の中心公理、すなわちマリア・プロフェティッサ[Maria Prophetissa 古代後期の伝説的な女性錬金術師・預言者マリア]の次の文章に辿りつくのである。「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」。(略)すなわち錬金術は、地表を支配しているキリスト教に対して、いわば地下水をなしているのである。錬金術のキリスト教に対する関係は、夢の意識に対する関係のごときものであって、夢が意識の葛藤を補償し、融和的作用を及ぼすのと同じように、錬金術は、キリスト教の緊張せる対立が露呈せしめたあの裂け目を埋めようと努める。(略)ここでは、キリスト教の教義の支柱をなしている奇数の間に、女性的なものを、大地を、下界を、いや悪そのものを意味する偶数が割り込んでいる。この偶数的なものの化身が「メルクリウスの蛇serpens mercurii)」つまり己れ自身を生み、かつまた破壊する龍、「第一質料prima materia」を表すあの龍である。(引用終了)(C・Gユング「心理学と錬金術」pp.39-40)
我々は預言者マリアが述べたという錬金術の中心公理「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」を興味深く眺めます。
なぜ1は2となり、2は3となるのでしょう。
我々は瞬間的に正反合のアウフヘーベンを思い出さざるを得ません。その直感を推し進めていきましょう。
僕らはヘーゲルの処女作である精神現象学の序論において、「あることがらを真理だと意識している人々に対し、しばしばそれと正反対のものが当の意識自身のなかにふくまれているのを、彼らに示してみせることができる。」という一文を思い出します。
これはソクラテスの産婆術もしくはソクラテスの弁証法と呼ばれる方法と似ています。
すなわち、ある真理の体系があったとして、それを仔細に徹底的に検討するとその中に「それと正反対のもの」が存在することに気付かされます。
これを一般化、形式化するならば、ゲーデルの不完全性定理となります。
ある閉じた系において、決定不能命題が不可避的に生じるのです。
正・反・合、すなわちテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼというと、ついテーゼ(定理)の外側に何かアンチテーゼを想定したくなります。しかしそうではなく、テーゼの中に不可避的にアンチテーゼは含まれるのです。パラダイムの中に変則性が不可避的に存在するようなものです。
パラダイムをより整合的にしていこうとする過程で、そのパラダイムの中心にいる人々の誰かが変則性に気付き、それをパラダイムの中で昇華しようと努力していく中で、パラダイム自体が破壊され、パラダイム・シフトが起ります。これがトマス・クーンの言う「科学革命の構造」です。
同様に、テーゼの中にアンチテーゼが含まれ、そのアンチテーゼという矛盾を抱えたまま、考え続けることで、ある瞬間に一つ上の抽象度へ止揚し、ジンテーゼに至ります。ここで正反合のトライアングルが完結します。もちろんこのトライアングルはセル・オートマトンのように運動を続けます。合は再び正として真を主張するも、矛盾した命題が発見され、それが反となります。永遠に止まらない運動です。
ヘーゲルの「否定の否定は矛盾の止揚」という言い方はこの運動を前提にしないと見えてきません。
この正の内側に反があるという点が大きなポイントです。
ラッセルの解説でより浮き彫りになると思います。
このラッセルの解説は単に正反合だけではなく、存在論のネットワークをイメージすると了解しやすいように思います。
(引用開始)
さて諸君は、一見なんの矛盾もなしに、A氏は叔父である、といいうるであろう。しかしもし諸君が、宇宙は叔父である、などといおうものなら、諸君はさまざまな困難におちいるであろう。叔父とは甥をもつ人間であり、甥と叔父とは別個の人間である。したがって叔父は、「実在」の全体ではあり得ないのだ。
この例解は、また弁証法を説明するにも用いうる。弁証法は定立、反定立、総合から成っている。まずわれわれが、「実在は叔父である、」といったとする。これは定立である。しかし叔父の存在は甥の存在を含意している。絶対者を除いては何者も真に存在しないのであるから、そしてわれわれは今、甥の存在に言質を与えたのであるから、われわれは「絶対者は甥である」、と結論しなければならない。これは反定立である。しかしこれにも、絶対者が叔父であるという見解に対すると同様の異議がある。したがってわれわれは、絶対者は叔父と甥からなる全体である、という見解に追いやられる。これが総合である。しかしこの総合もまだ不満足なのだ。なぜなら人間は、甥の親であるところの兄あるいは姉をもつ場合にのみ叔父でありうるからである。したがってわれわれは、われわれの宇宙を拡大して兄や姉、その妻や夫をも含めざるを得なくなる。このような風に、われわれは論理学だけの力によって、絶対者について提案されたどのような述語からも、弁証法の最後的な結論ーーこれは「絶対的理念」と呼ばれるーーーに追いやられる、と主張されるのである。この全過程を通じて、その根底に横たわる仮定は、全体としての実在に関するものでないかぎり、いかなることも本当に真ではありえない、ということである。(引用終了)
「叔父の存在は甥の存在を含意している」のです。叔父の存在の中に甥がすでに含まれるのです。ですから、宇宙は叔父であるとは言えないのです。
ここで言う「宇宙」もしくは「絶対理念」とは真ということです。真なる実在です。
叔父という系が正であり、甥が反となります。甥は叔父という系にすでに含まれています。甥がいない叔父も、叔父がいない甥もありえません。親子のようなものです。親がいて子がいますし、子どもが生まれて親は親になります。縁起は相互的です。
相互的である以上は、一つ一つは空なる存在です。そしてヘーゲルの文脈で言えば、唯一の実在と言えるのは絶対理念もしくは理性、精神と呼ばれるもの、すなわち神ということになります。神のみが真ということです。あとは偽というよりは虚なるものです。
ここで再び、我々は預言者マリアが述べたという錬金術の中心公理「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」を眺めます。
ヘーゲルではないですが、1は2となり、2は3となるのが見て取れます。
正は反をはらみ、正だけだったのが、正と反の二項対立になります。矛盾状態です。
そして、その2が止揚して、3つ目の合が生まれます。
ユングも別な文脈ですが「対立を止揚して一つのものとなっている」と書いています。
そしてセル・オートマトンのように繰り返し運動を続けます。3の合が再び正として機能し、その反が生まれて4となります。その繰り返しで、全一なるものが生じ来るのでしょう。
自我を定義しようとしたら、自分を記述するのは、自分ではないものばかりです。バナナが好きな私、リンゴが好きな私、果物が好きな私と言ったときに、バナナやリンゴや果物は「私」ではありません(「私が好きな私」と言った場合、これは自分を含みますねwナルキッソスはまさに自己言及的です)。自分を記述するには、自分でないものを用いるしかありません。そしてその自分ではないものを記述するためにも、それではないもので記述するしかありません。そうやってネットワークは宇宙大に広がります。
だからこそ、自我と宇宙は表裏一体と言えます。
そしてまさにラッセルがまとめたように、「このような風に、われわれは論理学だけの力によって、絶対者について提案されたどのような述語からも、弁証法の最後的な結論ーーこれは「絶対的理念」と呼ばれるーーーに追いやられる、と主張されるのである。」のです。
すなわち、どのような述語からも(主語は神なので)、絶対的理念こと神に至ります。何からはじめてもです。
それを簡潔に記述すると、
「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり」
となるのかな~と思います。
ユングの引用の後半はより面白いのですが、また書きたいと思います。
ポイントは、『この偶数的なものの化身が「メルクリウスの蛇serpens mercurii)」つまり己れ自身を生み、かつまた破壊する龍、「第一質料prima materia」を表すあの龍』です。
メルクリウスとは英語読みでマーキュリーで(メルクリウスの日が水曜日)、ギリシャ神話のヘルメスです。ヘルメスは錬金術の祖です。
メルクリウスの蛇はクンダリーニを象徴し、己自身を生み、かつまた破壊するとはウロボロスのヘビを思わせます。そしてそのメルクリウスのヘビは第一質料を表すとは...興味深いと言わざるを得ません。
以下はアルケミアの復習代わりに画像を並べます。
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*ローマ神話のメルクリウス(マーキュリー)はギリシャ神話のヘルメスと同じとされます
ちなみにヘルメスの息子が悲劇のヘルマプロディートスです。
(ユングによれば、アニマとアニムスの結婚こそが、錬金術そのものです)
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*ヘルマプロディートス
そしてヘルメスの持つ杖が有名なカドゥケウス(ケリュケイオン)。
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ヘビが一匹か二匹かで区別しがちですが、ポイントは羽です。
メルクリウスのヘビは一匹です。
カドゥケウスはまさに二重らせんが想起されます。
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もう一方では、アルケミアでもやりましたが、カドゥケウスはクンダリーニそのものです。
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一匹のヘビで有名のはアスクレピオスの杖です。医神です。
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アスクレピオスの杖は本来はこうなのですが、しばしばヘルメスの杖と混同されて二匹で描かれます。
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WHOはきちんと一匹です。
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アスクレピオスの娘でヒュギエイアという衛生の語源になった神様がいますが、彼女のヒュギエイアの杯もとてもいいです。
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『この偶数的なものの化身が「メルクリウスの蛇serpens mercurii)」つまり己れ自身を生み、かつまた破壊する龍、「第一質料prima materia」を表すあの龍』という、「己れ自身を生み、かつまた破壊する龍」とはウロボロスを思い出します。自分の尻尾を食むヘビです。
ウロボロスをプロビデンスの目とセットで。
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二匹のウロボロスは太極図そのものです。
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ヘビがらみは楽しいものばかりですね。
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*絡み合いながら成長しましょう!(リリト)
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預言者マリアの錬金術の中心公理とメリクリウスのヘビをめぐる冒険
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