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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった(ハンナ・アーレント)

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ヨブ記におけるヤハウェの行動は明らかにあのアイヒマンと似かよっている部分があるのではないか、ユングはデミウルゴスと言いましたが、我々はアイヒマンと呼びたいというのが、悪魔学の結論でした。

アイヒマンという人の行動をつぶさに観察すると、その一つ一つのエピソードは悪魔的としか言いようがありません。しかし、そのエピソードをいくつもいくつもつなげていくと、また別な像が見えてきます。結論から言えば、アーレントが喝破したようにそこには「愚かさ」ではなく「無思想性」があるのです。

アルゼンチンで捕まった時、アイヒマンを同定するのに決定的であったのは奥さんの誕生日に花を買ったことでした。アイヒマンらしき男性が妻の誕生日のためにと花を買い、その日付があのアイヒマンの奥さんのものと同じであれば、高い確率で確定的とみなせるでしょう。

しかし、逆に奥さんの誕生日に花を買うような良き市民が「オレは2年間に500万人もユダヤ人を虐殺したぜ」とことあるごとに吹聴するのでしょうか。




連行され、イスラエルで捜査されたときに、同席したドイツ系ユダヤ人の警官に向かって、心を開き、自分がなぜSS中佐までしか昇進できなかったことを切々と語るのがアイヒマンです。これだけを見るとまるで悪魔です。

ドイツ系ユダヤ人であれば、まさに目の前のアイヒマンによって殺された可能性があったわけです。そしていまや立場は逆転し、戦前のドイツは消滅しました。それにも関わらずその国での昇進の話を被害者側であるドイツ系ユダヤ人にするというのは悪魔の所業です。

しかし、そこに悪魔性を見るのは我々の思い込みであることが、アーレントによって解きほぐされていきます。

彼には理性がないのではなく、思想がないのです。

思想がないために、想像力がないのです。相手の立場になってものを考えることができず、自分の言っていることの整合性を維持することを考えられないのです。

アーレントの痛快な文章を引用します。

(引用開始)
アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になって見せよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数ヶ月にわたって警察で訊問に当るドイツ系ユダヤ人と向き合って坐り、自分の心の丈を打ちあけ、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や出世しなかったのは自分のせいではないということをくりかえしくりかえし説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終陳述において、「(ナツィ)政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。完全な無思想性ーーこれは愚かさとは決して同じではないーー、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人となる素因だったのだ。このことが「陳腐」であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底知れ無さを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。
(引用終了)

シェイクスピアの3つの作品が立て続けに引用され、そして「俗な表現」として磔のイエスの言葉が紹介されます。「勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してなかったろう。」という言葉にニヤリとするために、我々はシェイクスピアを楽しんでおいたのです。マクベスは夫人に説得されて、先王を殺し、自分がその地位につきます。


アーレントによって、無思想性という言葉は、「想像力の欠如」と言い換えられています。

アイヒマンはユダヤ人に良い友人がいたばかりか、一時期シオニストであったことも語られています。彼の中では自分の考えが統合されていなくても、構わないのです。むしろ矛盾の塊です。

その前後矛盾については何度も記述されています。そしてこれこそがアイヒマンをアイヒマンたらしめたものです。

自分はユダヤ人を迫害する者として死んでいこうという言葉を吐いた直後に、自分は反ユダヤ人主義の見せしめとして殺されようと言ってのける神経は信じられません。しかしこの異常さがアイヒマンを彩ります。

終戦時にふさわしい「私は笑って墓穴に飛び込むであろう」という言葉と、「世界中の反ユダヤ人主義への見せしめとして私は喜んで衆人の前で首を縊ろう」という言葉とは彼の頭の中では矛盾していなかった。事態がまるっきり変わってしまった今、この「世界中の反ユダヤ人主義云々」という言葉は前者とまったく同じく彼の心を昂揚させる機能を持っていたのである。(略)アイヒマン自身にしてみれば、これは気分の変化というだけのことであった。そして、その時々の気分にふさわしい悲壮な極り文句をあるいは自分の記憶のなかで、あるいはそのときの心のはずみで見つけることができるかぎりは、彼は至極満足で、〈前後矛盾〉などといったようなことには一向に気付かなかった。後に見るように、紋切り型の文句で自慰をするというこの恐ろしい長所は、死の寸前にあっても彼から去らなかったのである。

このような例は枚挙にいとまがありません。アイヒマンは宣誓をすることは人生でありえないと言ってのけたあとに、してもしなくても良いシチュエーションで宣誓をして証言をしたりします。

紋切り型の文句で自慰をするというこの恐ろしい長所は、死の寸前にあっても彼から去らなかった」というのが、これは寺子屋でも扱ったように(ここまでの内容はすべて寺子屋で扱っていますが)、私は輪廻転生を信じない、死後の世界は信じない、とさんざん言ったあとで、「では、みなさん來世で会いましょう」と言って死んでいくということです。そこに矛盾があるかどうかなどどうでもよく、ある紋切り型の決まり文句が自分の心を昂揚させれば十分なのです。
彼においては永遠の現在しかなく、過去も未来もその視野には入らなかったのかもしれません。

そしてこの姿は凡庸なる市民である我々の姿そのものではないかというのが、アイヒマン実験とも呼ばれるミルグラム実験です。「命令されたから」と思考停止することで、我々は恐るべき残酷なことに手を染めることができるのです。アイヒマンのように。

ちなみにアーレントはまさにドイツ系ユダヤ人であり、収容所にも入れられ、命からがらにアメリカに亡命するも10年間無国籍状態でした。師匠であったハイデガーはナチスの協力者ですし、このイェルサレムのアイヒマンを書くことによって、ユダヤ人もそれ以外の人も敵に回したのです。

偉大な人はいつの時代も厳しい批判を大衆から受けます。


僕自身はこのアイヒマンの受け答えに、チューリング・テストを思い出しました。チューリング・テストの機械もしばしば言われる欠陥は一貫性の喪失です。通常の人間であれば存在する人格の一貫性がなく、受け答えが場当たり的で、前後の脈絡がおかしくなるのです。

そしてこのアイヒマンの姿、無思想性と想像力の欠如に我々はヨブ記におけるヤハウェを見るのです。
相手の立場に立って考えることができないヤハウェはいつまでも無反省です。いつ相手の立場に立てるのか、すなわち全知で全能である神は、無知で無能である人間の気持ちにいつなれるのでしょうか?

ユングの答えは明瞭です。その瞬間を我々はすでに知っている、と言います。

すなわち、それが「受肉」です。
受肉とは神が人間の姿をして地上に降り立つことです。


僕はこの話しについ筒井康隆さんの小説を思い出しました。「エディプスの恋人」、「家族八景」、「七瀬ふたたび」の三つ合わせて七瀬三部作などと言います。人の心が読める超能力者である火田七瀬を主人公にした三部作です。最後は神と闘いますが、そのオチにあたる部分がこの「受肉」をめぐる物語です。


神は人になることで、ようやく想像力の欠如という多すぎる欠点の一つを克服します。

その克服の瞬間の叫びが「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」であるというのが、ユングの理解です。これは非常に面白いので、また紹介します!!




【書籍紹介】
ヒーラーとして生きるということは、圧倒的なマイノリティとして生きるということです。
それにその能力は共同体の多くの人にとっては気味の悪いものです。そんなことを追体験できるエディプスの恋人、家族八景から三部作を順に読んでみるのも面白いかと思います。
筒井康隆さんは寺子屋「文学」において、教材として指定した「文学部唯野教授」の作者です!

七瀬ふたたび (新潮文庫)/新潮社

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