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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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シシュポスのレンガ積み 〜「遠くを見る」だけでも、細部への徹底的なこだわりだけでもダメな理由〜

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ゴールの抽象度という言葉に還元されていくのかもしれませんが、どこに視点があるかというのはきわめて重要です。

昔、昔、あるところに3人のレンガ積みがおりました、という有名な話があります。
レンガを積む仕事をしている3人がいて、彼らにそれぞれ何をしているかと聞きます。

ひとりのレンガ積みはこう答えました。

地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」(あ、これはサタンですねw)

もとい、レンガ積みはこう答えました。

「見て分かるでしょ、いま、レンガを積んでいます」と。

二人目のレンガ積みが答えました。

「いま、素晴らしい建物を建てています」と。

三人目のレンガ積みに聞いたらこう答えました。

「いま100年後も残る街を私はつくっています」と。


レンガをひたすら単調に積んでいると思えば、その作業はシーシュポスの神話さながらの苦行です。
もしくは賽の河原積みとも言えましょう。無為な行為に人は耐えられないのですが、それでも生きていくために毎日満員列車にゆられながら、9時5時でレンガを積みます(もちろん多くの夢の脱サラの結果は、0時から24時まで熱心にやっても終わらない仕事の日々ですw)


*シシュポスの神話。シシュポスは重い石を何度も何度も山頂に上げては、その仕事がなされる直前で、岩が落下していくのを眺めます。詳しくはWikipediaを参照。というかこうやってギリシャ神話を眺めると、ホント神様っていい加減で残虐でめちゃくちゃだと確信できます(^^)それが何を思ったから、絶対善の神さまを想定してしまったのが無理ゲーだったのです。光が強いと闇が深くなるなどというわかったような話しではなく、単に一元論と一神教という制約条件が厳しすぎて、無茶だったために、悪魔がゴロゴロ出てきたのがキリスト教以降です。なぜ無茶をやったかと言えば、すでにそのときに多くの先輩の神話がゴロゴロあって、かつゾロアスターとかグノーシスなどの強者(つわもの)がいたからです。ゾロアスターやグノーシスが二元論を採用した以上は、その上を行くためには一元論を採用するしかなかったのでしょう(多元論という選択肢はそれこそ大先輩のギリシャ神話が採用しています)。


しかし、このレンガを積んだ先に何かあることを確信できれば、その行為は無為になりません(たいがいは賽の河原のように崩されることはないですし、シシュポスのように完成したら山を下ることもありません。もちろん宇宙的なオーダーで考えればすべては熱的死に向かいますがw)。

そして建物ではなく、数十年、数百年残る街の基盤をつくっていると考えれば、おそらくそのレンガは同じ重さの黄金以上の価値があると言えます。そこに多くの人が集い、そこで育ち、雨露を長いことしのがせ、暖を取らせることができるレンガです。それも長年です。黄金以上の価値が存在すると言って良いでしょう。

レンガを積むという行為は同じでも、5次元空間にどう広がりを持つかで、その行為の意味が変わってきます。

その行為をどの抽象度で見るか、そしてその抽象度をいかに上げて、そしていかにDetailにこだわれるかが重要です。

街を創り上げるという気概と同様に、どのようにレンガを積むか、どのくらいのモルタルを使うか、どう動けば合理的かというDetail(細部)の徹底的なこだわりが重要です。

僕は「ヘビのように狡猾に、鳩のように素直に」というイエスの言葉が好きなのですが、これをヘビのよう地を這いつつ、細部に徹底的にこだわりつつ、鳩というよりは鷹のように飛翔して地平線の先まで俯瞰して見るイメージで捉えています。

俯瞰だけでは、使えない夢想家のようになりますし、細部だけでは木を見て森を見ずな人になります。

高い抽象度と徹底的なアルゴリズムの最適化が必要です。抽象度はいつも上げ続け、アルゴリズムの最適化においては、徹底的に細部にこだわります。ミクロとマクロの往復が必要であり、それが同時にできることが必要です。


たとえばいま「気を出す」というワークをするときも、これで多くの人の救いになる、この気で人を癒していくと思っている人と、「ああ、はいはい、いつもの基礎訓練ね」と思っている人では全然違います。

出来る限りの多くの人を癒していくための一里塚として今のワークがあると思っている人は、みなぎる気合が全く違います。その張り裂けんばかりの気合をこめつつも、非常に冷静に気を見つめ、どう出すか、どう質を変えるかに対して異常なこだわりを示すことです。気合だけでもこだわりだけでもダメなのです。両方必要です。夢を描きつつ、地に足をつけます。知に足をつけるとはアルゴリズムを追うということです(多くの人は夢にアルゴリズムを当てはめ、アルゴリズムを求めるところに百を求めます。単に逆なのです。逆だからうまくいかないのです)。

抽象度とアルゴリズムは両輪です。片輪走行ではしばらくはうまくいっても、結局はぐるぐると同じ所を回ります。どこへも行かないのです。

メール一本、ブログ1記事、セミナー1本、同じです。

そして本当にささやかな行為、たとえばブログを読むときですら、「ヘビのように狡猾に、鳩のように素直に」読むことです。全力で抽象度を上げ、全力でアルゴリズムを追うことです。そうすると、それが第二の天性となります。

習慣という怪物は悪魔のようにふるまうが天使である」とはハムレットの言葉です。
しかしどのような習慣を選ぶかで、習慣は堕天使となり悪魔となりますw

その選択は一瞬一瞬我々の手にゆだねられています。



*人類と未来のために、一つ一つレンガを積んでいきましょう!


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