弟子という言い方はあまり好きではないのですが、フォロワーとか受講生とかクライアントというのもまた違う気がします。
僕自身は親鸞が先生の1人であるので、親鸞が「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。」という以上は、僕自身も持つつもりはありません。親鸞とすれば、自分は釈迦の弟子であるという感覚でしょうし、釈迦としては仏弟子はすべて仲間という感覚なのではないかと思います。
まあいずれにせよ、あなたを師事する人がいたとしたら、その方を仮に弟子と呼びます。
気功師としてある程度、上達してくると家族や友人を飛ばして、見知らぬ人々からヒーリングを依頼されるようになります。ちなみに家族や友人は最後までクライアントにはなりません(一度、他人となればクライアントになりますが、そうでなければ、預言者故郷に入れられずですw)。
家族にヒーリングをしたくてというヒーラー志望の方は多くいます。
自分をヒーリングしたいというニーズがヒーラーを志望する理由の第一位であり、第二位が家族や親戚のヒーリングのように感じます。しかしどちらも夢は叶わない確率が高くなります(ただ自らの手でという制約をなくせば、夢は実現します)。
何年も勉強と実践を真摯に積み重ねてある程度、実力がつくと、ヒーリングを依頼されるようになります。それも意外な形で依頼されます。
腰痛専門を謳っても、霊障が来たりします。スポーツ専門なのに風水の依頼が来たりします。そんなものです。コンサルティングを標榜しても、鬱の方が依頼に来ます。人は看板を見て、合理的な判断で来るわけではありません。自分を確実に助けてもらえると確信する人のところに行くものです(それが溺れる者の藁である可能性もありますが)。
ですから、自分が想定したものとは違う依頼がひっきりなしに来ます。そういうものです。
最初のうちは多くの人と接して、膨大にやりとりを行って、具体的に問題を解決していくと良いと思います。そこで鍛えられる力は我々がチューニングと呼んでいるものです。
クライアントさんとヒーラーは最初は言葉が通じ合いません。ですから、お互いに歩み寄ります。これをチューニングと呼んでいます。抽象度のチューニングです。
どんな言葉を使っており、どのようなコンテキストを共有しており、どのようなコンテキストを基礎にしているのか、どのような教育を受け、どのような社会階級に属しているかを素早く察して、チューニングすることが必要です。言い換えればラポールを創るということです。ラポールとは臨場感の共有ですが、どの臨場感ならば共有できるかをチューニングするのです。そしてより響く臨場感空間に立て続けに更新していく作業が必要となります。
ヒーラーが自分の言語だけで話してしまえば、クライアントとはバベることになります。バベるとはバベルの塔からの造語で、通じ合わないということです。
多くの人と真剣にヒーリングの場でやりとりすることで、そのチューニング能力が上がります。そして必要なのはヒーリングの能力というよりは、現代においてはチューニングの能力です。
なぜなら、ヒーリング能力自体は圧倒的に上がったからです。ただそれが相手に転送できないから、宝の持ち腐れになるのです。転送するために、チューニングが必要です。言語で言えば、翻訳のイメージです。
様々な人とたくさん話すと良いと思います。その中でしか、厳しい実践の中でしか鍛えられません。
そしてその際には売りを一つ決めておくことです。たとえば、前屈専門でも、ヨガ専門でも良いですし、ストレッチ専門でも、バレエ専門でも良いのですが、分かりやすい専門を提示する必要があります。専門をいくら提示しても、とんでもな方向からクライアントさんはやってきます。ただ看板が明確でないと、情報空間の中で看板を発見してくれません。
身体系はすぐに結果が見えるので、分かりやすいかと思います。肩こり腰痛解消でも良いですし、脊椎側湾症専門でも構いません(どれにせよ、実績は必須ですが)。
これは単なる標榜するための看板です。
そうして活動を続けていくと、ヒーラーとして開業できるようになります。
ヒーラーとして開業して10年ほどでも経つと、意外なところから弟子志願者が出てきます。教わりたいという人が出てきます。そのときにセミナー業という形で弟子育成をヒーリング業と並行してスタートします。
大概はセミナーですが、もちろん住み込みさせて鍛えるという昔ながらの方法ももちろんあります。高岡先生と齋藤孝先生の関係はそうでしたし、将棋の弟子入りも(かつては)住み込みでした(いまはよく分かりません)。ギルドなどもそうでしょう。実際は起居を共にしたほうが、良いのです。
まあ、ともかく弟子ができたとします。
このときの弟子は将棋のお師匠さんと同じで、教えようとしないことです。
将棋などでは、入門のとき一局指し、次に指すのは見込みのない弟子をやめさせるときなどと言われたものです。師匠と最後に(二回目に)指したコマをもって郷里に帰ります。
もちろんセミナー業は教えるのが仕事ですから、そこでは教えますが、それ以外で教えようとしないと良いと思います。
それよりは、弟子の弟子の心配をすることです。孫弟子に対して配慮するのです。
孫弟子に対して、こう教えると良いとか、こう導くと良いという話を弟子に対して行います。
梨園の世界では息子には厳しくなり、孫に優しく(甘く)なるなどと言いますが、どうしてもヒーリングのような技術を教えるとなると非常に苛烈になりがちです。伝統芸能などの芸事につきものの感覚です。例えて言えば、リヴァイとエレンみたいなものです(ちょっと違うか、リンクはYoutube)。
ですから、直接ではなく間接的な弟子に対して指導するつもりで、弟子と接することです。息子には厳しい先代も、孫には優しくなるものです。
これは言うまでもなく「未来を観る」という方法論でもあります。弟子になりたてでまだその次の世代ができる可能性が全く見えないときに、すでに弟子の心配をしておくのは重要です。それは確実に来る理想的な未来だからです。すなわち、ゴールを更新することになります。
自分の直接の弟子のことをスルーして(自分の子どもと同じで近すぎるとアラばかり目立つので)、その弟子の弟子、孫弟子のことを真摯に考えることです。それが弟子を強烈に素早く成長させるコツです。
【書籍紹介】
久々に読み返したくなりますよね。親鸞の物語です。
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師となるのであれば、自分の弟子のことを考えないで、その孫弟子のことを常に考える
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