抽象度という概念はそもそもは分析哲学から来ています。
束論による存在論において、一つの基準として情報量の大小で情報を並べ替えたときに、その大小の関係を抽象度の高低と読み替えたのが、抽象度の定義です。
すなわち、その本質は包摂順序集合における情報量の大小です。
情報量とはデータ量ということなので観測可能な概念です。計算量とも言い換えられますし、たとえば計算が終了するまでにかかる時間という物理的に観測可能な概念です。
包摂関係というのは、犬と哺乳類のような関係です。哺乳類という集合は明らかに犬を含みます。これを包摂関係と言います。
犬ー哺乳類ー動物ー生物というオーダーはこれは包摂集合です。包摂関係にあるもの同士の集合であり、情報量が多い順に並べているので、包摂順序集合と言えます。
ここでたとえば猫のような概念が放り込まれると、犬と猫の順序という解決不能な問題が出てきます。ですので、犬、猫ー哺乳類ー動物ー生物のように部分だけ順序が不明なままで処理します。
これを包摂半順序集合と言います。ちなみに半順序集合は順序集合を包摂します
この情報量のオーダーを逆向きにしたのが抽象度です。
では、なぜここで抽象度が重要かを考えてみましょう。
第一義的には、定義より分かるように、情報量が少ないからです。
情報量が少ないということは、演算処理の時間を節約できるということです。
1万時間かかるのと、1時間で終わるのとであれば、後者を選択します。
我々は神のごとく永遠の時の中で生きているのではなく、生命時間は有限である以上は短い方を選びます。
第二に、潜在的に処理できる情報量が圧倒的に増えるからです。
犬に有効な手法を知っているよりも、動物全般に有効な手法を知っている方が、応用範囲が広がります。犬についての方法を学び、猫についての方法を学び、豚について学び、牛について学び、、、、と永遠にやっていても、動物について学んだものに叶いません。
抽象度の階段を一段上がるだけで、無限の差が生じるというのはこういうことです。
ですから、個別具体的なことを学んでいても、いつも抽象化する癖を持つことが重要です。
第三に、我々は定義上、全抽象度にわたって存在します。生命の定義ゆえにです。
とすると、我々は物理空間を自在に動けるだけではなく(時間方向に逆向きには走れませんが)、抽象度方向にも本来は自在に動けるはずです。そのほうがより自由であり、より楽しいはずです。
我々は物理をまとって物理そのものとして肉体をもって生まれてきます。その制約は絶対です。しかしだからと言って物理的身体に制約されることはありません。そのために物理的な脳が情報空間へアクセスする計算機として機能しているのです。
この観点があれば、抽象度にまつわる様々なことが氷解していくでしょう。
たとえば、なぜ抽象度を上げることと脱力が同時に語られるのか?
これはシンプルです。脱力していない状態というのは、たとえば力んでいたり、筋肉が拘縮しているというのは、意識が強く物理的現実世界に向いているからです。物理に強く囚われているから力むのです。
それに対して脱力することで、物理的な臨場感が薄くなり、情報空間への臨場感を持ちやすくなります。これが抽象度を上げることにつながります。
抽象度を上げれば上げるほど、物理次元から離れるわけですから、脱力もするし、変性意識も深くなります。変性意識というのは、目の前の物理次元とは異なる仮想世界に強く臨場感を持っている状態です。
IQに関してはもっとシンプルです。
抽象度の階段を上がれば、情報量が下がるのはご承知のとおりですが、それは計算の複雑性が下がるということでもあります。計算の時間が少なくなるということです。
人間にとっての計算とは思考です。平たく言えば素早く解答に辿り着けるということです。
すなわちIQが高いということです。
もちろん問題を見る視座が高い(抽象度が高い)とか、一を聞いて十を知るなどもこの視点に含まれますが、本質的には計算の時間が圧倒的に短くなるということがポイントです。
では、これが身体とどう関わるのでしょう。
肉体というのは分子生物学ではないですが、計算の固まりです。膨大な代謝の計算の集積です。
この計算のレベルを上げることが、抽象度の階段を上がることで可能になります。
その演算には必ずコストがかかります。そのコストは物理的なもので贖われます。そのコストが減らせれば、より重要なものによりコストを注げるようになります。
抽象的に語れば、非常に雲をつかむような話ですが、具体的なものに砕いて落としていけば、かなり楽しいものです。
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抽象度を数学的に正確に定義することが、なぜ身体を高度化するのか?
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