ポール・ヴァレリーだったかと思うのですが、自分が書いたものを読んで、はじめて自分がいかに知らないかを知るなどと言います。
アイデアでも言説でも理論でも何でもそうですが、きちんとアウトプットして、それを冷静に客観的に眺めてはじめて、自分が考えていたことを克明に知ります。
何か光るアイデアがあったり、ユーレカ体験があったなら、それをきちんとアウトプットしたほうが良いのです。
Moneyもideaも善い行いや微笑みも、流通させてこそ価値が生じます。
イエスが神の国はこことかあそことかガルガンチュアの外側ではなく、人と人の間にあると言いました。ルカ17:20
個人の中で完結するアイデアはまだ生を得てなく、それがアウトプットされて流通してこそ、意味があります。
何を言いたいのかと言えば、「仕事のススメ」です。
高いレベルで学んだヒーリングの技をどんどんビジネスの場で実践していきましょう。ブログでもフェイスブックでもメルマガでも、DMでも公開しながら、周りの人にどんどん公開して、実践していきましょう。
クライアントが見つからないとか、宣伝の場がないのであれば(というか、まあ今はブログを立ち上げるのは、ガリ版を削るよりは楽だと思いますが)、自分のノートに書きつけて後世の人の発見を待ちながら(ガウスかっ!)、自分を実験台にして徹底的にヒーリングしましょう。いわゆるセルフ・ヒーリングですが、狂ったようにいつも猛烈にヒーリングをすることです。
それを3年続ければ、プロとして独立可能です。
イエスは受け取るより与えるほうが幸いだと言いました。
自分が困窮に陥ったとしても、人に与えるほうが幸いなのです。
受けるよりは与える方が、さいわいである
(僕自身は文語的な「与うるは受くるより幸いなり」が好きというか、口になじんでいます)
自我とは関数であるというのは、1つの有効な仮説だと思います。
関数はインプットとアウトプットで構成されます。この意味は、インプットだけではダメということです。インプットはどうしてもしてしまうものなので、どうアウトプットするかに専心することです。
どう自分の中にあるものをすべて外にさらけだして、社会に機能を果たせるかを考えることです。
イメージとなるモデルはたとえば「幸福な王子」と「星の銀貨」でしょう。絵本で読んだことがあるのではないでしょうか?
幸福な王子とは自我を持つ彫像の話です。きらびやかな姿をしていたのですが、つばめの誘惑説得もあり、博愛精神を発揮して貧困に打ちひしがれる人を救うというオスカー・ワイルドの物語です。
Wikipediaから引用します。
町の中心部に高く聳え立つ自我を持った王子像が、あちこちを飛び回って様々な話をしてくれるツバメと共に、苦労や悲しみの中にある人々のために博愛の心で自分の持っている宝石や自分の体を覆っている金箔を分け与えていくという自己犠牲の物語。最後は、宝石もなくなり金箔の剥がれたみすぼらしい姿になった王子と、南に渡っていく時期を逃して寒さに凍え死んだツバメが残る。皮肉と哀愁を秘めた象徴性の高い作品。Wikipedia
そして星の銀貨はすべてを喜捨する少女に最後に訪れる奇跡の瞬間の物語です。
むかし、あるところにたいそう貧しい少女がいた。彼女の両親は亡くなってしまい、住むところも食べるものも着るものも無かった。親切な人からもらったひとかけらのパンと彼女が着ている服だけが彼女に残された唯一のものであった。
しかし、彼女はとても良い心の持ち主だった。彼女が道を歩いていると、おなかを空かせた男に出会う。彼女はためらいもなく男にパンを渡し、また歩き出す。今度は寒がっている少年に出会う。彼女は親切に着ているフードを差し出し、また歩き出す。すると、また別の寒がっている少年に出会う。彼女は着ているワンピースを少年に与え、歩き出す。そうしているとまた別の少年が現れ、彼女に唯一残された下着を欲しがる。彼女は下着もその少年にあげてしまう。
やがて、着るものも食べるものも失ってしまった彼女がその場にたっていると、星が彼女のもとに降ってくる。彼女の行いを神がほめたためだった。降ってきた星は銀貨となり、少女は裕福に暮らしたのだった。星の銀貨
どちらも子供の頃に絵本などで親しんだのではないかと思います。
仏教説話で言えば、お腹を空かせた旅の老人に対して、身を捧げるウサギの物語でしょう。
イエスは「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」と言います(というか、なんで口語訳はこれほどまで格調を失わせるのでしょうか。わかりやすければいいわけではないと思います。自由主義神学というゆとり教育はたらいの水と一緒に赤ん坊を流してしまっているような気がします)。
マタイ10:39
当然ながら、別にすべてを捨てて、生活を投げ打って、人に尽くせとは言っていません。
律法にあるがごとく、「己の如く、汝の隣人を愛すべし」です。この命令はふたつ。自分を愛せ、同様に隣人を愛せ、です。自分を憎んで、隣人を愛せとも、自分を投げ打って隣人を愛せとも言っていません。自分を愛さずに、隣人を愛してもダメです。
イエスもパウロも磔で死んだのであって、餓死したわけではありません。自分の食い扶持はキープしています。
ただ、自分の命を投げ打っても、社会に対して機能を果たすという気概や理念は非常に重要です。それが幸福な王子なり、星の銀貨、仏教におけるウサギが示すものです。
というわけで、アウトプットしましょう!!
インプットしてもそれはまだ可能態であり、社会に機能を果たしてはじめて現実態になります。
インプットとアウトプットのサイクルが閉じて、はじめてインプットは身となり、血となり肉となります。
急速に成長する人は、必死で人のために尽くす人です。
持っているものをすべて出して、もし持っていないとしても求められるものは、必死でかき集めて、尽くしましょう。
社会はそのように人々によって、構成されていると思います。
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与うるは受くるより幸いなり(使徒行伝)「幸福な王子」と「星の銀貨」
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