ルカ書というのは、マタイやマルコに比べると少し説明過剰な感じがします。
マタイやマルコが小説だとすると、ルカは少し劇画調です。その比喩で言えば、ヨハネは映画なのかもしれません。
それだけに分かりやすいとも言えますし、ミスリードしていると言えるかもしれません。
「求めよさらば与えられん」「たたけよ、さらば開かれん」というのはイエスの、そして聖書の大きなテーマです。
まず神の国を求めよ、というのは、まず理想を掲げよ、もしくはまずゴールを設定せよということと通じます。
ただ悪い意味で怠惰な僕らは、ついゴール設定や「求める」「叩く」ということを安易に考えがちです。
リモコンを押せば、テレビがつくようにはゴール設定はいかないものです。
(いや、これもまたたしかに別の話があり別な見方があります。具体的な事例で言えばローマ百卒長の話があります。しかし、それはまたそれです。百卒長の話は、抽象度の階段を示しています。安易さとは程遠い議論です)
安易さに対する戒めとして、こんな譬え話がルカ書にあります。
ルカ11章5節から10節です。
まとめると話はシンプルです。
たたけよ、さらば開かれんと言うが、ただ叩くのではなく、しきりに叩け、開かれるまで叩け、ということです。
こんな話です。
あなたの下宿に古くからの親友が訪ねてきました。でも、夜遅くて、コンビニも開いていません。
何かパンでも出して接待したいのですが、手持ちのパンを切らせています。
そんなとき隣に住んでいる友人のところへ行って、「いま古い友だちがうちに訪ねて来たんだけど、何も出すパンがないんだよね。悪いんだけど、パンを貸してくれない?」と。
イエスは続けていいます。
友だちだからというだけの理由で、夜中にたたき起こされてパンを貸してやる義理はない。
ただあなたがしつこくしきりにお願いするので、きっと友人は貸してくれるだろう、と。
ポイントはしきりにお願いするという点です。
以下ルカ書です。
(引用開始)
そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
(引用終了)
こういうところにさりげなくイエスの本音が出てくるように思います。
熱望するというか、強く思い、強く行動することが「求める」ということであって、カウチポテトでぼんやりと思い描くのは「求める」にはなりません。
同様な例としては、マタイ5章46-47節があります。
イエスの思想の中核は隣人愛です。
ヨハネの福音書(13:34)にもこうあります。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
とは言え、これも誤解にまみれているので、警告を与えます。
好きなもの同士で愛し合っても、兄弟に挨拶しても意味は無い、と。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。(マタイ5章46-47節)
隣人愛というと、律法学者のように、隣人とは誰ですか?というアホな質問が来るので(サマリア人の譬え)、むしろ「汝の敵を愛せよ」のほう真意を伝えられているかもしれません。
つまづきの石は多くありますが、繰り返し丁寧に読みながら、理解を深めていきましょう。
聖書は繰り返し読むに耐える我々人類の共有財産の一つです。
マタイやマルコが小説だとすると、ルカは少し劇画調です。その比喩で言えば、ヨハネは映画なのかもしれません。
それだけに分かりやすいとも言えますし、ミスリードしていると言えるかもしれません。
「求めよさらば与えられん」「たたけよ、さらば開かれん」というのはイエスの、そして聖書の大きなテーマです。
まず神の国を求めよ、というのは、まず理想を掲げよ、もしくはまずゴールを設定せよということと通じます。
ただ悪い意味で怠惰な僕らは、ついゴール設定や「求める」「叩く」ということを安易に考えがちです。
リモコンを押せば、テレビがつくようにはゴール設定はいかないものです。
(いや、これもまたたしかに別の話があり別な見方があります。具体的な事例で言えばローマ百卒長の話があります。しかし、それはまたそれです。百卒長の話は、抽象度の階段を示しています。安易さとは程遠い議論です)
安易さに対する戒めとして、こんな譬え話がルカ書にあります。
ルカ11章5節から10節です。
まとめると話はシンプルです。
たたけよ、さらば開かれんと言うが、ただ叩くのではなく、しきりに叩け、開かれるまで叩け、ということです。
こんな話です。
あなたの下宿に古くからの親友が訪ねてきました。でも、夜遅くて、コンビニも開いていません。
何かパンでも出して接待したいのですが、手持ちのパンを切らせています。
そんなとき隣に住んでいる友人のところへ行って、「いま古い友だちがうちに訪ねて来たんだけど、何も出すパンがないんだよね。悪いんだけど、パンを貸してくれない?」と。
イエスは続けていいます。
友だちだからというだけの理由で、夜中にたたき起こされてパンを貸してやる義理はない。
ただあなたがしつこくしきりにお願いするので、きっと友人は貸してくれるだろう、と。
ポイントはしきりにお願いするという点です。
以下ルカ書です。
(引用開始)
そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
(引用終了)
こういうところにさりげなくイエスの本音が出てくるように思います。
熱望するというか、強く思い、強く行動することが「求める」ということであって、カウチポテトでぼんやりと思い描くのは「求める」にはなりません。
同様な例としては、マタイ5章46-47節があります。
イエスの思想の中核は隣人愛です。
ヨハネの福音書(13:34)にもこうあります。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
とは言え、これも誤解にまみれているので、警告を与えます。
好きなもの同士で愛し合っても、兄弟に挨拶しても意味は無い、と。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。(マタイ5章46-47節)
隣人愛というと、律法学者のように、隣人とは誰ですか?というアホな質問が来るので(サマリア人の譬え)、むしろ「汝の敵を愛せよ」のほう真意を伝えられているかもしれません。
つまづきの石は多くありますが、繰り返し丁寧に読みながら、理解を深めていきましょう。
聖書は繰り返し読むに耐える我々人類の共有財産の一つです。
