寺子屋シリーズも初回の論理学からスタートして、数学(微分・積分)、分子生物学、哲学と来て、5回目はパラダイム論です。
パラダイム論というテーマは寺子屋全体を通しても一見するときわめてユニークです。
もちろん、パラダイム論というのはトマス・クーンの名著「科学革命の構造」で紹介されたパラダイム・シフトについてです。
*パラダイム・シフト!!
パラダイム・シフトという視点はきわめて重要です。
パラダイム・シフトというのは、プラトンの言い方を倣(なら)えば、視線の向きを身体ごと変えることです。
我々の知識がないために、パラダイム・シフトができないのではなく、我々が見ているものが洞窟の影にすぎず、外の世界があることを知らない(経験したことがない)ゆえなのです。
すなわち、プラトンによれば、我々は目が悪いのではなく、見ている場所、見ているものが悪いために、本来は「善のイデア」を正しく感得できるはずの目を万人が持ちながら、正しく観ることが出来ない人がいるのです。洞窟にいる彼らにすべきことは教えこむことではなく、手を引いて洞窟から外に出し、まぶしさに目が慣れるのを待つだけということです。
この感触というのは、きわめて抽象度の高い議論であっても、きちんと洞窟の階段を登っていけば、確実にそこにたどりつける可能性があるということです。
ファインマン流に言えば、ひとりのバカができたことなので、どんなバカでも出来得るということです(ちょっと記憶からの引用で雑ですが)。
それをデカルトは万人が公平に持っているボン・サンス(良識)として語りました。
*我らがデカルトさま。
「ボン・サンス(良識)はこの世でもっとも公平に配分されているものである」とはデカルトの方法序説というパンフレット(薄い小冊子)の冒頭の言葉です。中程にあの「我思う故に我あり」があります。このパンフレットで一番disられているのは哲学です。哲学がいかにくだらないガラクタの寄せ集めかと舌鋒鋭く批判している一方で、数学の論理性をより処にしようと言っています。その意味でデカルトが哲学者として後世に評価されているのは皮肉なものです。
ちなみに、我思う故に我ありのラテン語はCogito, ergo, sum. これは英語では、I think, therefore, I am.です。
これはSVなので、第1文型です(と僕も英語の教師に習いました)。スクールで5文型もやりましたねw
Cogito, ergo, sum.
I think, therefore, I am.
と並べて構造を見ると、英語とラテン語というゲシュタルトがうっすらと浮かび上がります。
英語においては主語は絶対に必要ですが(命令文という特殊系以外は)、ラテン語は主語が不要で、動詞の活用によって、主語を確定するということも分かります(Cogitoとoを伸ばすので、私が主語と分かります)。
ちなみに、かつて「日本語は主語が曖昧か、はっきりと明示しないので、日本人には主体性がない」というような牽強付会な意味不明な言説が流行った時期がありますが、ラテン語を見れば、その言説がいかにくだらないかが分かります。
と脇道にそれていますが、パラダイム論です。
パラダイムというのは知識を要素とする単調な集合ではありません。
基本的には抽象度の階段、もしくは情報空間の階層を一段上がった新しい整合的な地図を指します。
しばしば、パラダイム・シフトを文化的な横の移動と変わらないという風に言う人もいます。
科学も完全ではありえなく、それは文化であるという立場です。
しかし、ポアンカレが言うように、科学を絶対的な真理だと思うのも愚かであれば、不可知論に陥るのも愚かです。ポアンカレはどちらも考えなくて良いための方便だと切って捨てています。
科学が真理だと思い込んでしまうのもうっかり八兵衛ですし、科学で分かっていることなどほんのわずかだとうそぶくのも幼稚過ぎます(そのわずかなことについてすら何も知らないおサルさんが口を開くなwって思います(^^)まあ「言論の自由」がありますので、お喋りは永遠にしていれば良いでしょうが)。
科学はより整合的な地図なのです。正しいのではなく、より整合的であるということです。
地図が現実と同じだったら、それはその土地であって、地図ではありませんw
科学というのは、現時点でのより整合的で、より圧縮された使いやすい地図であるというだけです。それが真理だとか、賢者の石だとか誰も言っていないのです(いや、科学者でも誤解している人は多いのかもしれませんが)。
パラダイム・シフトというのは、古い地図から新しい地図へ乗り換えることです。
そうすると古い地図は二度と視界に入らなくなります。見えなくなるのです。そして「新しい地図」でしか思考できなくなります。新しい酒は新しい革袋へ!(マタイ9:17)
そうすると、かつてあれほどの論争があったのがウソのように、パラダイム・シフト後はその地図以外が存在しない世界となります(いやいや、もちろんそれも完全ではありません。いまだに地球がフラットだとか、人はサルから進化したわけではないという方もいます)。
サルトルの愛人第1号であったボーボワールは(こういう言い方はもう許されないのかもしれません。むしろ「サルトルというノーベル賞を辞退した作家を愛人に持っていたボーボワールは」と言えばいいのでしょうか?)「On ne naît pas femme:on le devient. 人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(とこれまた「第二の性」の第二部の冒頭。僕らは古典にせよ、何にせよ、もしかしたら冒頭とあとがきしか読まないのかもしれませんw)と言います。
*ボーボワールとサルトル、、、そしてチェ・ゲバラです!すごい組み合わせ(^^)
ボーボワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な一節、これはもちろんフェミニズムの立場での、批判的な言説です。ですが、それを反転させて、もじって言えば「我々は人に生まれるのではない、毛のない裸の未熟児のサルとして生まれて、後天的に教育によって人になるのだ」と言えるかもしれません(というか実際にそうですし。だからこそ教育はきわめて重要です。プラトンの国家の第七巻のテーマです)。
パラダイム・シフトとは、これまでいた洞窟の世界から出て、光のもとへ移動することです。
そのまぶしさに慣れない人々が全員死に絶えると(彼らがパラダイム・シフトを最も嫌がります。現状維持し続ける理研を利権を獲得している人々だからです)、世界は新しい地図を手に入れます。
パラダイム・シフトの議論をクリアに体得するために、参照書籍として「科学革命の構造」と「暗黙知の次元」を挙げました。これにプラトン「国家」の第七巻(洞窟の比喩)を加えても分かりやすいかもしれません。
【参照書籍】
パラダイム論を語る上では欠かせない古典です!
科学革命の構造/みすず書房
¥2,808
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非常に明快にパラダイム論の本質をえぐります。
科学の世界は公明正大な論理を戦わせるピタゴラス教団なり、プラトンのアカデメイアではなく(まあ、二つの集団が実際はどうだったか知りませんが)、むしろ呪術的であり宗教的であり、権威主義的であり、伝統重視であり、盲目的服従が要求される体育会系であることが赤裸々に描かれています。
そして、それこそがパラダイム・シフトを起こす源泉なのです。このパラドックスこそが、パラダイム・シフトを本当に理解するポイントです。
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房
¥972
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7巻はたしか岩波版では下巻に所収されていたかと思います。
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)/岩波書店
¥1,188
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本文で紹介しましたので、方法序説も!
本当に薄いパンフレットです。
ちなみに、方法序説の中でデカルトは、「もうあんまりにサルたちが見当外れな批判をぶつけてくるので、今後金輪際おれは自分の主張を公開しない」という意味のことを書いています。まあ、炎上するだけでもキツイですが、彼らの炎上は本当に身体に火をつけられましたし、ブルーノは火刑です。
方法序説 (岩波文庫)/岩波書店
¥518
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方法序説も漫画があるそうで!ちょっと驚きの充実っぷりですw
方法序説 (まんがで読破)/イースト・プレス
¥596
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*ジョルダーノ・ブルーノ
コペルニクスを擁護しただけで、火炙りにされた気の毒な修道士。火炙りの八ヶ月後が関ヶ原の戦いです。
もしコペルニクスもブルーノも間違っていて、それが神の逆鱗に触れるなら、神自らが手を下せば良いようなものです。聖典によれば、金の子牛を礼拝しただけで神は怒ってジェノサイドしたのですし。
p.s.
ちなみに寺子屋のバックナンバーなどのお申込みはこちらです。現在、35回まで開催されています。26回までは1講座15,000円、27回以降は1講座2万円です。
*寺子屋で一歩先ゆく知性を!
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【寺子屋「パラダイム論」】寺子屋シリーズの全貌と参照書籍の紹介!〜新しい地図に乗り換えよう!〜
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