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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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「泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから」(ガロア)群とはgroup

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今月開催するスクールの「天才たちのリレー」では古典の読み込み方を学びます。

いかにして膨大な古典を自分の身体にいれていくか、いかに加速学習するかがこれからの大きな課題です。

過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)というのはやはり事実です。歴史が単純に繰り返すことはありえませんが(マルクスは「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と言いましたが)、膨大な歴史を身体にいれることで、いわば巨人の肩に乗り、未知なる先を見通す目を持つことができるということです。歴史とは人間の営みであり、我々は人間です。


昨日はフェルマーの最終定理を扱いました。

フェルマーの最終定理はやはり難解です。

難解ですが、ゲーデルが母に向けて書いたように「抽象観念を恐れることはない、最初はすべてを理解しようとしないで、小説を読むように進みなさい」ということが重要かと思います。

特に、今回はサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を予習用のテキストとしました。
数学史としては非常に面白く、数式も出てきません。ほとんど。

たしかに、数学は明らかに高度に抽象的な情報空間の営みです。
ですので無機質で難解で抽象化された概念の羅列に見えます。
次回のポアンカレ予想を解決したペレルマンはもっと非人間的で機械的な論文を書きました。
しかしペレルマンは人間らしい人間であり、真理と共に我々の友です。

ちなみに余談ながらワイルズは多少の肉声があります。それも論文の中に。しかしこれは数学の論文としては珍しいことです。公開されている論文(雑誌掲載)で確認することができます。

ご承知のとおり、ワイルズはフェルマーの最終定理の証明を公開しましたが、査読の過程で比較的にすぐに深刻なギャップを発見します。長年の苦労のすべてが無に帰しそうになりますが、そこから1年かけてその蟻の一穴を埋めるために再びこもります。前回と異なるのは衆人環視ということです。あまりに有名になりすぎたために、リアルパノプティコン状態です。その中で奇跡的に素晴らしい啓示を得ます(I came suddenly to marevelous revelation)。

長いですが、引用します。まずは足立恒雄先生の翻訳で紹介します(当初はレジュメで使おうと思っておりましたが、最後の最後で割愛した引用です)。

(引用開始)
 1994年1月にはオイラー・システムの議論を立て直すためにテーラーに加わってもらった。そして1994年の春にオイラー・システムの議論を修正するのに嫌気がさした私はテーラーとともにp=2を使う新しい議論を案出する試みを手がけ始めた。しかし、p=2を使う試みは8月末には行き詰まってしまった。テーラーはそれでもオイラー・システムの議論が修正不可能だと考えてはいなかったのだけれども、9月には私は、(以前ぶつかった)障害をもっと正式に定式化するだけだとしても、Flachの理論を一般化する試みを一度やってみようと決心した。これを実行するうちに突然すばらしい啓示を得た。1994年9月19日、私は一瞬のうちに、de Shalitの理論は、一般化すれば、双対性とともに、適当な補助的レベルのへッケ環を一つの冪級数環へと張り合わせるのに利用することができる、ということを悟った。私は思いがけず、以前に放棄した道に欠けてい鍵を発見したのだった。(引用終了)(足立恒雄著「フェルマーの大定理 整数論の源流」ちくま学芸文庫 pp.322-323)

「突然すばらしい啓示を得」て、「私は一瞬のうちに」悟り、「私は思いがけず、以前に放棄した道に欠けてい鍵を発見した」ことが重要です。また、これが数学の論文(の序文)に書かれているというのが興味深いのです。ちなみに論文の冒頭はフェルマーのこの書き込みからスタートします。

Cubum autem in duos cubos, aut quadratoquadratum in duos quadratoquadratos, et generaliter nullam in infinitum ultra quadratum potestatem in duos eiusdem nominis fas est dividere cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non caperet.



他の具体的なことは、(大変失礼な言い方ながら)枝葉末節です(たとえば、谷山=志村=ヴェイユ予想はその後すぐに証明されて定理となったので、ワイルズの手法は歴史的意義しかないと言えます。もちろんそれでも偉大であることには間違いがありませんが、大きな流れを押さえることは近視眼的になるよりはるかに重要です)。大枠がつかめて、幹がつかめれば、枝葉末節は次第にクリアに見えてきます。そして何よりも見なくて良いところが分かるようになります。

木を見て森を見ずに陥らないためにも、人間の営みとして全体像をつかみ、なるべく大きな文脈でつかむことが大切です。

以下は原文です。ワイルズの焦燥と焦りと、一転して思いがけない発見の喜びが本人の手によって、赤裸々に描かれています。

(引用開始)
 Meanwhile in January, 1994, R.Taylor had joined me in the attempt to repair the Euler system argument. Then in the spring of 1994, frustrated in the efforts to repair the Euler system argument, I began to work with Taylor on an attempt to devise a new argument using p=2. The attempt to devise a new argument using p=2. The attempt to use p=2 reached an impasse at the end of August. As Taylor was still not convinced that the Euler system argument was irreparable, I decided in September to take one last look at my attempt to generalise Flach, if only to formulate more precisely the obstruction. In doing this I came suddenly to marvelous revelation: I saw in a flash on September 19th, 1994, that de Shalit's theory, if generalised, could be used together with duality to glue the Hecke rings at suitable auxiliary levels into a power series ring. I had unexpectedly found the missing key to my old abandoned approach. (引用終了)(MODULAR ELLIPTIC CURVES AND FERMAT'S LAST THEOREM Andrew John Wiles p.453 )


昨日、ほんのわずかばかり導入した(ほぼ、導入していないに等しいですがw)群論。
群論と言えばガロアの悲劇を思い起こさずにはいられません。
ガロアは20歳で死んでいます。つまらぬ決闘で命を落としています。
自分の死期を悟る(決闘で死ぬことが分かっている)ために、自分の数学的アイデアを決闘の前の晩に書き留めます。そこには「時間がない」という悲愴な叫びも含まれます。


*15歳ころのガロアの肖像画(以下の引用と共にWikipediaより)

フェルマーがディオフォントスの著書(のバシュ版)にした落書きの脚注として数論が発展したように(ライプニッツもワイルズも含め)、ガロアのその汚いメモの脚注が群論です(もちろん失礼な物言いであることは百も承知ですが、比喩であるとともに、ラッセルと共にプリンキピアマテマティカを書き上げたホワイトヘッドの言葉のオマージュです。彼はこう言ったと言われます「西洋哲学全般において確実に言えるのは、すべてがプラトンの脚注にすぎないということである」)

早朝に決闘で撃たれたガロアは朝方に農夫により病院に運ばれましたが、時すでに遅く、涙ぐむ弟に対して言った言葉はあまりにも有名です。そしてこれが最後の言葉となりました。

Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir à vingt ans!
泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには、ありったけの勇気が要るのだから。


群論はフェルマーの最終定理においてもきわめて重要な役割を果たします。端的に言えば、楕円曲線とは曲線であり、曲線とは点の集合と見做すことができます。その楕円曲線上の点の集合が群を成すというのがポイントです。

点の集合として幾何学的な図形を観ることは重要です。点の集合と言うと僕はいつもこのAppleの動画を思い出します。点が動きまわって図形が形作られていく感覚を持てます。



我々はアリストテレスの忠告を守らずに、実無限として世界をみがちです。そうではなく可能無限の立場に立ち(ユークリッドがそうであったように)、生成される場として点なり直線を考えるべきです。

群論もまたきわめて高度に抽象的な概念ですが、しかしそれを生み出した人々は我々と同じ人間であり、彼らが人間の営みとして数学という抽象空間の構築物を一つ一つ積み上げているという事実が重要です。
ガロアの人となりを深く知れば、群論に対する見方は激変するでしょうし、群が便利だからというだけではない臨場感が生まれます。
我々も一瞬一瞬死にゆく存在である以上は、あまりに「時間がない」存在であり、「ありったけの勇気が要る」存在です。その共感からスタートすることが数学という人間の営みを学ぶコツであり、態度かと思います。

サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」はその意味で人間ドラマがふんだんに取り入れられています。数学的な理解よりも、数学の理解のためには人間ドラマの理解がまず重要だと「まといのば」では考えています。人間ドラマではなく歴史と言い換えても良いかもしれません。そして歴史を学ぶときは、なるべく肉声に寄り添う努力をすることです。それが古典を読むということにつながります。

ゲーデルの言うように、「抽象観念を恐れることはない、最初はすべてを理解しようとしないで、小説を読むように進み」ましょう!




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こちらも何度か引用しておりおなじみかと思いますが、これは我々の重要な指針かと思います。

(引用開始)
彼(引用者注:ゲーデル)が親しくつきあった人の中に27歳年上のA.アインシュタイン(1879-1955)がいた。2人 の家は近く、家族ぐるみのつきあいをすることになった。ゲーデルは、アインシュタインが特殊相対 性理論のために哲学的分析をおこない、たぐいまれな成功を収めたことに尊敬の念をもっており、アインシュタインは、ゲーデルの気品ときちょう面さとの組合せに惹かれていたという。彼らは互いに 定期的に訪問しあい、哲学、数学、物理学などについて、議論しあっていた。ゲーデルの母は、アインシュタインとの友情を聞いて思わず感きわまったという。彼女はさっそく、アインシュタインの業績を勉強しはじめたが、それに対してゲーデルは彼女に手紙で、抽象観念を恐れることはない、最初はすべてを理解しようとしないで、小説を読むように進みなさい、と勧めている。
(ゲーデルの世界 海鳴社 p.14)

(引用終了)(太字は引用者)


*ゲーデルとアインシュタイン


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