7月の寺子屋の告知文を書いていなかったことに今更ながら気付いてあわてています(^^)
7月はフェルマーの最終定理とポアンカレ予想をそれぞれ扱います!久々の数学です!
とは言え、数式は最小限に、楽しく理解することを最大限に、を目指します!
*ワイルズ博士がフェルマーの最終定理の証明を示したとき(証明の穴が見つかる前)。
いや、それらしきもの(告知)はずいぶんと前に(なんと5月に!)書いたのですが(参照!)、きちんとした告知文はまだでしたorz
ゴールは定義上、いつも現状の外なわけで、「まといのば」のゴールもいつも現状の外です。今年の寺子屋のゴールの1つは「フェルマーの最終定理」と「ポアンカレ予想」を原論文で寺子屋の中で読みたい!というものでした。無茶は承知で公言していましたが、最近は急速に力をつけてきたので、行けるのではないかと思っています。
ちなみに「まといのば」では近い将来、数カ国を自由に操りながら、古典を原典でガシガシ読みつつ、高いIQで情報交換するという寺子屋の姿が見えています!(がんばりましょう!)
とは言え、僕らにはまだフェルマーの最終定理もポアンカレ予想も「現状の外」過ぎるのですが、しかし今年も半分終わりましたので、とりあえずイントロダクションとしてフェルマーとポアンカレ予想に入ります!フェルマーとポアンカレ予想にどうやって入るかと言えば、いつもと変わらず歴史から突っ込んでいきます!
*ポアンカレ予想を説いたペレルマン
先日、カントの純粋理性批判を開講しました。僕自身、大学の原書購読がカントだったこともあり、思い入れが深いのですが、それを差し置いて、プラトン、アリストテレスから、ニュートン、アインシュタインを介し(いや、ユークリッドとリーマンも)、ベンサム、フーコーと俯瞰したときに、非常に面白い絵が見えました。
*おでこが素敵なカント様
カントの純粋理性批判の最大のテーマというか問いは「ア・プリオリな総合判断はいかにした可能なのか?」ということですが、いや、そもそもこれが何なのかが分かりません。
ア・プリオリって何?
総合判断って何?
「独断のまどろみ」って何?という風に謎が謎を呼び、気付いたら迷宮に深くさまよいます。
ちなみに、ヒュームによってカントは「独断のまどろみ」から目を覚ますことができたと言いますが、ヒュームはご承知のとおり理性を否定することで一気に形而上学を否定し、そして科学を否定します。これは見事な破壊工作ですが、そのおかげでカントは独断のまどろみから覚めます。独断のまどろみとは、合理論が陥る独断論というスコトーマのことです。
原因と結果の結合の概念をヒュームは攻撃します。原因と結果の結びつきがア・プリオリであると概念から考えることは理性には不可能だということです。原因と結果について言えば、我々はしばしば誤帰属から逃れられません。間違った原因を結果と結びつけることはよくあります。
ヒュームは魅力的ですが、カントの話を先にします。
カントはこう書いています。
(引用開始)
私は正直に認めるが、デイビッド・ヒュームの警告がまさしく、数年前に私の独断的まどろみを破り、思弁的哲学の分野における私の探求にもまったく別の方向を与えたものであった。
(引用中断)
というプロレゴーメナの序文からのあまりに有名な一節です。ただこれに続く部分のほうがもっと面白いと僕は思います。
(引用再開)
といっても、私はけっして彼の結論についてヒュームに耳を貸さなかった。彼の結論は、彼が自分の課題を全体として思い浮かべず、ただその一部分だけに思い当たったことに由来するが、課題の一部分は全体を考慮に引き入れなければいかなる教示も与え得ないのである。われわれが他人が後に残した、まだ仕上げられてはいないにせよ基礎のしっかりした思想から始めるなら、たえまない考察によって、あの鋭敏な人が達したよりも、さらに進化することを十分期待できる。もちろん、この光の最初の火花についてこの鋭敏な人にわれわれはお陰をこうむっているのである。
(引用終了)(カント「プロレゴーメナ」序文 世界の名著32巻「カント」p.94)
ヒュームが形而上学ばかりか科学をも否定したことは、もちろん少しやり過ぎです。とは言え、そう言わざるを得ない一本道であったことも事実です。
その衝撃を受けて、形而上学と合理論の権化とも言えた若きカントは独断論のまどろみから目を覚ますのです。目を覚ましたものの、覚ましてくれた鋭敏な人であるヒュームの主張を受け入れるのではなく(むしろ「耳を貸さなかった」とあります)、しかしその基盤の上に新しい形而上学を創り上げることを高らかに宣言しています。
その批判を「彼が自分の課題を全体として思い浮かべず、ただその一部分だけに思い当たったことに由来する」と指摘し、「課題の一部分は全体を考慮に引き入れなければいかなる教示も与え得ないのである」と部分と全体に触れるあたりがカントの偉大さです。まさにゲシュタルト。
「われわれが他人が後に残した、まだ仕上げられてはいないにせよ基礎のしっかりした思想から始めるなら」とはニュートンの「巨人の肩」を思い起こします。ヒュームの巨人の肩に乗り、カントはスタートしたということです。それが批判三部作であり、その一冊目が純粋理性批判でした(実践理性批判、判断力批判と続きます)
(引用開始)
私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです。--ロバート・フック宛書簡、1675年2月5日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では1676年2月15日)
If I have been able to see further, it was only because I stood on the shoulders of giants. (引用終了)Wikiquote
*巨人の肩の上に乗っています。
「ギリシア神話の盲目の巨人オーリーオーンとその肩に付き従う奴隷ケーダリオーン (プッサン、1658年)」Wikipediaより
ちなみに余談ながら、上記と同じWikiquoteに引かれている
プラトンは[私]の友、アリストテレスは[私]の友。最大の友はしかし真理である。--『哲学的諸問題』(1664年頃)
Amicus Plato— amicus Aristoteles— magis amica veritas. --Quaestiones Quaedam Philosophicae
というニュートンのつぶやき(というか書いたもの)も同様にアリストテレスという偉大な知の巨人の肩に乗ったものです。
とは言え、「プラトンは私の友、されど真実はさらなる友"Amicus Plato, sed magis amica veritas" 」というのはアリストテレスの言葉というよりは、後世の要約であったようです。
もちろんニコマコス倫理学においては、同様の箇所があります(その部分が後世の要約というかことわざになったのですが)、イデア論に関して、師であるプラトンは尊敬し、愛しているが、批判的に再考察せざるを得なく、その意味でも真理を採用するということで、「されど真実はさらなる友(sed magis amica veritas)」なのでしょう(ニコマコス倫理学はアリストテレスの考えを息子ニコマコスたちがまとめたもの)。
引用します。
(引用開始)
「形相(エイドス)」(=イデア)なるものを導入したのはわれわれの親しきひとびとであるからして、かかる探求は険阻な相を示すのであるがーー。真理の確立のためには、しかしながら、親しきを滅することがむしろいいのであって、それがわれわれの義務でもあると考えられるのであろう。殊にわれわれは哲学者・愛智者なのであるから。けだし、真理も、親しきひとびとも、ともにわれわれにとって愛すべきものではあるが、真理に対してより多く尊敬を払うことこそが敬虔な態度なのである。
(引用終了)(アリストテレス ニコマコス倫理学 第一巻 第六章 岩波文庫(上)p.29)
まさに、「されど真実はさらなる友(sed magis amica veritas)」ですね。
ちなみに、このアリストテレスの言葉(とされることわざ)をドン・キホーテが総督となったサンチョ・パンサへの手紙に引いているので、その部分を引用します。
(引用開始)
ある事件が出来(しゅつらい)して、こちらのご夫妻に不快をおかけすることになると思う。気疎(けうと)いことではあるがどうってことはない。とどのつまり、《プラトンハ友達、サレド真実ハサラナル友達》の言葉に則って、あちらの楽しみよりもわしの職務を全うするまでのことだ。総督となってよりラテン語を学んだと思うから引用してみた。神によりて人の哀れみがありますよう。
おまえの友、ドン・キホーテ・ラ・マンチャ
(引用終了)(新訳ドン・キホーテ後編 セルバンテス p.367)
なんか原型をとどめないくらいに脱線していますが、寺子屋の7月の告知文です。
話はカントの純粋理性批判でした。
カントの純粋理性批判を一言で言えば「ア・プリオリな総合判断は可能か」ということでした。しかし、この問いそのものを理解するにはそれまでの哲学の歴史が必須です。認識論と存在論の対立。認識論の中での経験論と合理論の対立。そして形而上学...。それらを理解したとしても、今度は純粋理性批判の中に立ち入り、ア・プリオリとは何か、総合判断とは何かということを理解しなくてはいけません(ア・プリオリとは経験に先立ってということであり、総合判断とは経験に基づいた判断なので、まあ明らかな矛盾が内包されています。それを克服したのがカントの偉大さです)。
ですので、むしろ全体像から入ります。
カントがア・プリオリとして見出したのは何のことはなく時空という直観形式でした。この時空とは当然ながら、ニュートンの絶対時間、絶対空間と同じものを指します。不変で不動の空間と、何ものにも干渉されずに流れる時間です。この空間はユークリッド空間です。このように見ると、カントからニュートン、ニュートンからユークリッドへの系譜が見えます。ユークリッドが示したのはある意味でプラトンのイデアです。イデア界のアルゴリズムの1つをユークリッド原論としてまとめました。カントから、ニュートン、ニュートンからユークリッド、ユークリッドからプラトンへとバトンがつながります。このような全体像から見ると、本質的な理解が深まるように思います。
フェルマーやポアンカレ予想も同様です。
近視眼的にならず、大きく人類の歴史の中で位置付けることで、数学ではなく人間の知の進化の歴史を俯瞰できます。
カントの際にも述べましたが、哲学、数学、神学、科学、宗教というのは軌を一にして進化しています。このダイナミックな関係をつかむことが、楽しく加速学習するポイントかと思います。
~寺子屋シリーズ7月は数学の二大巨頭に挑む!フェルマーの最終定理とポアンカレ予想!!
【日時】 隔週金曜日 19:00~21:30(延長することが稀にあります)
【場所】 東京・四ツ谷の「まといのば」の新セミナールーム
【受講料】 20,000円
(1講座あたり、基本的には銀行振込でお願いします)
【受講資格】 ブログ読者
【持ち物】 筆記用具と向上心と情熱
【お申し込み】お申し込みはこちらから。
【講座詳細】
7月11日(金) 【はじめてのフェルマー予想 ~フェルマーから数学を覗く~】
19:00~21:30
20,000円
7月18日(金) 【はじめてのポアンカレ予想 ~数学と物理学がキスをする~】
19:00~21:30
20,000円
*寺子屋で1歩、先行く知性を。
【書籍紹介】
フェルマーの最終定理 (新潮文庫)/新潮社
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ポアンカレ予想については、以下のいずれかを眺めておいてください(^^)
ポアンカレ予想―世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者/早川書房
¥2,052
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100年の難問はなぜ解けたのか―天才数学者の光と影 (新潮文庫)/新潮社
¥529
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完全なる証明―100万ドルを拒否した天才数学者 (文春文庫)/文藝春秋
¥812
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ポアンカレ予想を解いた数学者/日経BP社
¥2,592
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以上が寺子屋7月に関連した書籍紹介です。
以下は記事で言及した書籍の紹介です。
純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)/岩波書店
¥1,015
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純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)/岩波書店
¥1,166
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この漫画はやはりいいです!
純粋理性批判 (まんがで読破)/イースト・プレス
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僕自身は「世界の名著」から引用しましたが、プロレゴーメナだけを読むならこちらを。
プロレゴメナ (岩波文庫)/岩波書店
¥907
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プラトンは私の友、されど真理は...という元ネタはこちらです。ニコマコスとはアリストテレスの息子の名前です。ニコマコス倫理学とはニコマコスの倫理学ではなく、ニコマコスが書いたパパであるアリストテレスの倫理学ということですね。
ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)/岩波書店
¥1,015
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ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)/岩波書店
¥1,015
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プラトンは私の友、されど真理は...という引用をドン・キホーテがサンチョへの手紙でしているというのは驚きです。
新訳 ドン・キホーテ {前編}/彩流社
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その引用自体はこちらの後編から。
新訳 ドン・キホーテ{後編}/彩流社
¥4,860
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とは言え、やはり古典は大変なので、まずは漫画で下ごしらえを。
ドン・キホーテ -まんがで読破-/イースト・プレス
¥価格不明
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【募集中】7月の寺子屋は数学の最先端へ一気に落下傘 〜フェルマー、ポアンカレ〜
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