寺子屋のバックナンバーを通じて、寺子屋のシリーズを順に学ばれている方が増えています。
良いことだと思います。
というのは、気功にせよ、バレエにせよ、Yogaの上達や健康を志向するにしても、我々は思考するにあたり、言語を用います。当たり前ですが、言語は借り物です。先人たちから受け渡され、しばし自分のものとして、つかの間、借り受け、そして後世に受け渡していくものです。
言葉は学ばない限り、身に付かず、言葉無しでは、何も考えられないからです。
今日のメルマガにバレエの問題はすべて知識の問題に還元されるという旨の話題がありましたが、バレエや芸術一般のように感性の世界であるようなものこそ、言語に還元され、知識に還元されます。たとえば炎の画家などと言われるゴッホが弟テオに送った手紙を見ると、それが良くわかります。アイデアはすべて言語化されており、その実験の場としてキャンパスが選ばれているのがわかります。通常の科学の実験と同じように、想定外の結果がランダムに起こることがブレイクスルーにつながりやすいことまで同じです。ただもちろん果報を寝て待つのではなく、きちんと準備された精神にしか幸運は訪れません(そのカラクリはシンプルです。幸運が何らかのアイデアなりモノの形で訪れても、準備が無ければ、認識ができないからです。見えないものは存在しないので、その現象を指して、「幸運が訪れない」と記述します。実際は、目の前にあるのに見えないのです)。
その言語というのは、膨大な知識を整理するためのタグとして用いられます。
ですから、思考には言語は不可欠です。というか、我々は意識であれ、無意識であれ言語を用いない限りは思考ができません。コンピュータサイエンスのように、思考は計算であると見做すならば、計算はアルゴリズムがないとできないのです。アルゴリズムとは言語です。言葉です。
我々は無邪気に言葉を扱いますが、そのことで多くの機会損失を招いていることにはなかなか気付けません(誰も教えてくれませんし)。
パーティー会場に行って、楽しそうにみんなが飲んだり食べたりしているのに、言葉が分からず、その場のルールが分からないようなものです。所在無く立ちすくみ、アルカイック・スマイルでニコニコとニヤニヤと引きつりを足したような曖昧な表情を浮かべながら、目の前の楽しそうな光景をうらやましげに眺めながら、パーティーはいつしか終わります。でも、そんなのは嫌です。
僕らはせっかくパーティーに参加したのですから、是非楽しみましょう。パーティーのルールはシンプルです。裏に走るアルゴリズムを知ること。ルールを知り、言語を学び、そしてそれらをシンプルに使いながら、試行錯誤を経て修得することです。そうすればきらびやかなパーティーを心ゆくまで楽しめます。人生という名のパーティーを。パーティー会場に入ったときは、みんな何も知りません。一つ一つ学べば良いのです。
「まといのば」の寺子屋のハイライトはいくつかありましたが、その一つはクリプキでしょう。クリプキは現代を語る上で書かせませんし、「まといのば」の数多くの議論の支柱になるものです。しかし難解さゆえに忌避されがちです。難しいのは当然として、しかし良薬口に苦しで、早めに楽しんで飲んでおくことに越したことはありません。
サクッと理解してしまいましょう。
下手なSFに墜ちたかに見える現代物理学に比べると、役立ち度は高いと言えそうなのが数学や哲学です。
クリプキの大きな業績の一つは可能世界意味論です。
様相論理の完全性を示す中で、様相論理が示す意味として出てきたのが可能世界です。
僕の理解が正しければ、可能世界意味論というのは世界のあり方の新しくそしてより整合的な理解ということです。かつて、単調論理で、可能や必然という言葉をもてあそんでいたときは、世界は単純でした。いわば天動説の世界でした。世界は不動であり、天上界が動いていました。クリプキの可能世界意味論はそれをひっくり返し、天動説から地動説へのコペルニクス的転回を哲学なり、認識論で引き起こしたと言って良いのではないかと思います。
我々としては、もはや世界を天動説で見れないように、可能世界意味論でしか見れなくなっています(いや、今後そうなっていくでしょう)。
可能世界というと、頭の中にある空想なり、想像の世界、未来予想図のように受け取られることが多いのですが、それは古いパラダイムでの理解です。
我々の現実世界(w)と可能世界(w’)は本質的には変わらないのです。
クリプキのシンプルで秀逸な説明を見てみましょう。彼いわく、サイコロを振ろうとしたとき、我々はその出る目のすべてを数え上げることができると言います。すなわち、一瞬先の可能世界を並べ上げられるということです。
2つのありふれたサイコロを振るとしたら、その結果として36通りの可能な状態、すなわち可能世界を考えることができるということです。しかしその36通りの可能世界のうち、行けるのはただ一つです。
(引用開始)
二つのありふれたサイコロ(それらをサイコロAとサイコロBと呼ぶ)を振って、二つの目が現れる。各々のサイコロにつき、六つの可能な結果がある。したがって、目の数に関する限り、一対のサイコロには三六の可能な状態があることになるが、現実に降られたサイコロの現れ方に対応するのは、これらの状態のうちただ一つだけである。様々な出来事の確率の計算方法を(諸状態の等確率性を仮定して)、われわれは皆学校で習っている。(略)
さて、こうした確率の練習問題を学校でやらされることによって、われわれは実際、年少時に一組の(縮小版の)「可能世界」に引き合わされたのである。世界に関して、二つのサイコロとそれらが出す目以外のすべてのことを(仮に)無視する(そして片方または両方のサイコロが存在しなかったかもしれないという事実を無視する)限り、そのサイコロの三六の可能な状態は、文字通り三六の「可能世界」だと言える。これらのミニ世界のうちただ一つだけーーサイコロの実際の出力に対応するミニ世界ーーが「現実世界」なのであるが、現実の結果がどれだけ確実ないし不確実であったか(あるいは、あるだろうか)を問う時には、他の諸世界も関心の的となる。(「名指しと必然性」 pp.17-18)
(引用終了)
36通りの可能なサイコロの目は、それぞれが36通りのミニ世界であり、36個の可能世界です。
しかし、もちろん現実の結果はそのうちの一つだけです。シュレディンガーの猫のように重ね合せということは想定しません(というか、そもそもシュレディンガーは想定が間違っているのです。古典力学の頭で、現代量子力学を無理矢理考えようとするから、おかしなことになります。「地球が球体だったら、地球の反対側の人は落ちてしまうだろう!」的なツッコミです。アインシュタインも同じ誹りを免れないでしょう。ただ二人共皮肉にも大きく量子力学の発展に貢献しました。バカなツッコミに一生懸命に回答しようとしたら、量子力学の論理が強く鍛えられたということです)。
「そのサイコロの三六の可能な状態は、文字通り三六の「可能世界」だと言える。これらのミニ世界のうちただ一つだけーーサイコロの実際の出力に対応するミニ世界ーーが「現実世界」なのであるが、現実の結果がどれだけ確実ないし不確実であったか(あるいは、あるだろうか)を問う時には、他の諸世界も関心の的となる。」
ここでポイントになるのは、我々は違うサイコロの目であったときのことを想定できるということです。
1のゾロ目が出たのが現実だとしても、3のゾロ目であったかもしれないときのことを想定できます。これが可能世界です。
1のゾロ目も可能世界であり、3のゾロ目も、ゾロ目ではなくて、2と5であっても、何でもいいのですが、36通りのどれである可能性もほぼ等しくありました(ラプラスの魔がいない宇宙であれば)。
これが可能世界論です。正確には可能世界意味論(possible world semantics)です。
様相論理は式の変形をひたすらにやりそれによって公理系を組み上げるというSyntax(統語論)は発展したのですが、じゃあその論理記号である可能性や必然性って一体何なの?というのが意味不明であった時期がしばしあり、そこに様相論理の完全性を可能世界意味論で示したのがクリプキでした。
直観主義論理によって、我々はようやく様相論理の意味論を手にしたということです。逆に言えば、可能や必然の意味を有史以来はじめて知ったのです。
この話とトランスがどう関わるかと言えば、現実世界wに対して、他の到達可能な世界の真偽値によってある命題の可能と必然が示されます。到達可能なすべての世界において真であれば、必然。到達可能な可能世界のうち少なくとも一つは真であれば、可能です。
で、我々は現実世界wよりも、ある特定の可能世界に対して強い臨場感を持つことができます。
手元の1のゾロ目ではなく、出なかった3のゾロ目に強い臨場感を持つことができるようにです。この状態を変性意識と言います。物理的現実世界ではなく、別な可能世界に臨場感がある状態です。
重要なのは、いまここの現実世界(という可能世界の一つ)から別な可能世界への到達可能性関数です。到達可能性関数のことを知識と定義します。端的に言えば、ある可能世界からある可能世界へと移動できるか(到達できるか)はその知識に依存するということです。知っていれば行けるし、知識が間違っていれば行けないということです。
そして、知識が到達可能性関数であるということは、知識を得た瞬間に情報空間ではそこに移動しているということです。別な可能世界へ移動しているということです。
ここで誤解されがちなのは、自我の問題でしょう。平たく言えば、ある可能世界から別な可能世界へ移るとき、自我は変化します。同じ自我のままでは移動できないのです。血糖はそのままでミトコンドリアに入ることはおろか、細胞質にも入れません。脂質はいつも脂肪酸とグリセロールに分解しないと小腸も脂肪細胞も通過できません。同様に、自我も変化しないと別な可能世界にワープ(到達)できないのです。ただもちろん異なる可能世界の自我をすべてピンで指して、異なるすべての可能世界での同一性を言う方法はあります。固定指示子は存在します。それはもちろんNamingです。ただ逆に言えば、親がつけてくれた名前というタグ以外には、すべての可能世界にまたがる同一性は存在しないということでもあります。我々はペラペラのネームのタグでしか自我の同一性を担保できないのです。というか、それだけの存在なのです。
そうしてみると、言葉の真偽値が人によって異なるのも当然です。なぜなら物理空間を共有していても、情報空間を共有していないからです。
知識を得るというのは、自分にとって好ましい可能世界へ到達するための切符を手にすることです。そして、自分にとって好ましい可能世界に強く臨場感を持つことで、自我の関数が変わります。なぜなら、その可能世界の真偽値を自分のものとするからです。そうすると知識によってと、臨場感によって、見えてくるものが変わります。なぜなら、重要性が変動するからです。重要でないものは背景に溶け込み、重要なものが前面に浮き上がってきます。背景に溶け込むことをスコトーマに隠れると言い、重要なものが前面に浮き上がってくることを、スピリチュアルでは「引き寄せ」などと言います。引き寄せるのではなく、見る目の重要性関数が変わっただけです。赤い色が重要になれば、赤いものが目に飛び込んできます。それだけのことです。赤いものを探そうとしたら、その想念が引力となり、目に実際に吸い寄せられて飛び込んでくるわけではありません(笑)。
人間の営みなので、オカルトもスピリチュアリズムも宗教も科学も大きく変わることはありません。それに言語というきわめて曖昧でフラジャイルなものを使ってコミュニケーションをしている以上は、その議論は似通ってきます。どれくらい似てくるかと言えば、味噌とクソくらいに似てきます。
どちらを選ぶか、どの程度の味噌(あるいは別の方)を選ぶかは、どの可能世界を選ぶかと同じくらいに自由です。ただ明らかに情報空間には階層性があるのであれば(魂にバラモンからアウターカーストまでのヒエラルキーがあるかは知りませんが、いずれにせよ魂など実在しないので、実在する魂にヒエラルキーがあるという命題は真でしょう)整合性がより高いものを選びたいと思うのが生命現象の性(さが)だと思います。栄養価の高い情報を食べたくなるものです(情報空間の階層性というのは言い換えれば、計算量ということです。複雑性です)。栄養価の高い情報なり、知識とは、自分にとって好ましい可能世界へ導いてくれる存在です。その知識はまずは自我を変え、そして見える世界を変えます(自我を変えずして、知識だけで何とかなると思っている人の浅はかさはこの議論により自明です)。
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トランスとは言葉である〜2つサイコロの36の可能な状態は、文字通り36の可能世界だと言える〜
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