「まといのば」では気功とは言っても、いわゆる中国の道教を起源とする気功ではありません。
由来はむしろアメリカです。
アメリカの認知科学を起源とします。
人間の認知やリアリティの研究の中から見えてきた副産物としてのマインドコントロールの手法が軍事技術として研究され、それが民間に転用されたのを「気功」と名付けています。インターネットやらロケットやら飛行機やら多くの科学技術と同じですね。
(ちなみに「世界の誰も知らない技術」とか「情報」とか、「支配者しか知らない何たら」などと言うのは、多くの場合はその語っている方の無知を露呈している場合が多いように思います。情報はかなり公開されている社会になっていますが、リテラシーが無いと読めないのです。読めないとその人の世界にはその情報は存在しないので)。
という話しはおなじみかと思います。
じゃあ、なぜ「気功」と名づけるのかと言えば、別段理由はありません。ヒーリングと呼ぶ場合もありますし(波動とか量子場なんたらなどとは間違ってもつけませんが、物理宇宙はすべて量子場なのですから、無知ゆえの無邪気な憧れを前面に出すのもどうかと思います。まあ「気功」という名称とは五十歩百歩でしょう)、名称はこだわりません。
ただある種の現象に対して、何かフォーカスする名前が必要なので「認知科学に基づく共感覚による内部表現書き換え」ではなく「気功」と名付けています。「気功」という名称であればヒプノよりは怪しくなく、催眠術よりは受け入れやすいかなと思いました(ヒプノと催眠術の皆さまごめんなさい)。
世が世なら「潜在意識開発」とか、「深いトランスによる能力革命」などと言ったのかもしれません(言わないか...orz)。
だから、「まといのば」では中国の話も、道教の話もほぼ皆無です。
わずかに付け足し程度です。中国の気功が大したことがないとか、そういう失礼な話ではなく、僕自身がその教育で「気功」を学んでいないからというだけのことです。
*ちなみに陰陽五行については大学で学びましたw
*推拿もほんのたしなみ程度に。
「まといのば」では、やたらに数学や哲学や科学の話が出てくるという印象があると思いますが(印象ではなく事実ですが)、それはリテラシーの確保のためです。
数学や哲学や科学の最低限の素養が無いと会話が成立しません。気功について「まといのば」で教えようとしても、言葉が通じないのです。
先日、医療者向けのセミナーで「その数学は何の役に立つのですか」と前の講師が聞かれていました。たしかオイラーの公式の導出か何かをされていました(前の講師に対する質問です。僕に対してしたら、講義からつまみ出しますので。何かを学ぶということはテレビを見て無責任に批評するのとはわけが違います。お互いに真剣な場であるべきです)。
それを受けて、バトンタッチした僕としては「オイラーの公式すら知らないで、医療者として生きることも、ましてや数学についてその意義なり、何に役に立つのかを吟味することもできないのでは」という趣旨のことを回答しました。
端的に言えば「グチャグチャ言わないで、黙ってこの程度のことは学べ」ということです。
というかこのような小学生で学ぶべきことを大人でも知らないことを恥じるべきで、それが何の役に立つかなどを偉そうに聞くのはナンセンスです。
赤ん坊が「立ち上がれることに何の意味があるの?ましてや歩けても仕方なくない?そのメリットについて納得できるように説明してよ」などとドヤ顔で言うようなものです。
メリットが見えなければ、学ばないというのは分からないでもないのですが(寺子屋でもただ学ぶために学ぶのではなく、メリットは提示しています。ただそれは仮初めのものでしかなく、本来は学ぶために学ぶのです)、そういう人は資格試験でもコレクションしていれば良いのです(いや資格試験を介して、学びの契機とするのは賛成です。資格がゴールでなければ)。
もちろん数学にせよ、科学にせよ、哲学にせよ、必死で学ぶことで、リテラシーが手に入ります。逆に「まといのば」で「気功」を学ぼうと思ったら、最低限のリテラシーは必須です。そうでないと、言葉が通じないのです。
最低限のリテラシーが無いのに「気功」だけ学びたいというのは、アルファベットを知らないで、英語でコミュニケーションを取りたいとドヤ顔で言うようなものです(頭の不自由な方に限って、過信とおごりが激しく、無茶を言います。逆に言えば、だからこそ、その知能のレベルなのでしょうが)。
かつては「まといのば」でも、どれほど無知であっても情熱があればゼロから教えられると考えていました。もちろん基本的には今もその考え方は変わりません。ただ実際に教えるとしたら、無知である場合は、若い人に限定しています。具体的に言えば十代まででしょう。とは言っても、完全に無知であればお断りします。どんな塾にも大概は入塾試験はあります。
大人になって、「無知だけど情熱はあります!」という人には、「じゃあこれまでに、なぜ結果が出せていないんですか?」というドリームキラーな突っ込みをしたくなります(しませんが)。じゃあ、「その情熱で1年独学してから来ればいい」と思います(これは本気で)。
じゃあ、「大人になってからは敗者復活は無いのか?」と言われれば、もちろん「あります!」と回答します(敗者復活という意味が不明確ですが、まあ「やり直し」程度の意味で)。ただ「自分のケツは自分で拭いてね」というだけのことです。
僕の大好きなフランス人バレエ教師は、バレエのクラス中に怒ると、顔を真赤にして「俺はおまえの母親じゃねぇんだよ」とFuckingを交えておっしゃっていました。彼の言いたいことは、いちいち俺から言われなくても、自分で注意して身体を動かせということです。俺が毎回直すわけにはいかないだろう、と。
まさにおっしゃるとおりm(__)m
誰かに言われて、誰かに教えられて学ぶのではなく、まずは自分でガリガリとまずは学ぶことです。必死になって、繰り返し読んで、考えて、自分の頭で学ぶことです。
ただある時に限界にぶち当たります。その壁とはシンプルなものです。
何かを学ぶときは、本からは学べないということに気付くのです。
僕自身の拙い経験からもそうですが、学びというのは人から人へと伝承されるものです。対面で学んだものが全てだと思います。本はそれを多少補完してくれるだけです。それでも本を大量に読んで、大量に考えるのは、無駄にはなりません。学びの場の前にその予習の時間がどれだけ持てるかで、学びの場の稠密さが変わります。
逆に予習がもしもゼロであれば、学べることはほぼゼロなのです。
知りたいことのほとんどはこのブログに書いてあります(多分)。
それを探す手間を惜しんで(単に検索ボックスを使うだけです)セミナーに来たとしても、得るものは無いかもしれません。まずは自学自習、それからお越しください(^^)
情熱と最低限のリテラシーを持つ人を歓迎しています!!
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「気功」と言っても中国由来ではなく、アメリカ由来であるという話など
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