幾何学(Geometry)という言葉の意味は、Geoのmetryであり、地球の測量です。
土地の測量でもあります。
裏の畑の測量と考えると、まっ平らな面と考えても構いません。実際には凹凸があります。
たとえばここ四ツ谷の地は4つの谷と書かれますが、坂の街です。あるところの3階が別の所の地上の高さです。同じくビットバレーなどと言われる渋谷もそうですが、四ツ谷も渋谷も地下鉄が地上に出ます(一部ですが)。なぜなら谷だからです。地下鉄に乗っていると突然に地上に出るので、いつのまに地下から上がったのかと混乱しますが、我々がフラットだと思っている地上が下がっただけです。
裏の畑を測量しようとしたときに凹凸を考えていたら大変なので、土地は平らだと近似して考えます。地球の曲率が( ー`дー´)キリッなどと考えなくても、村や街のレベルでもフラットではありません。
ただ面倒なのでフラットであると仮定して(近似して)計算します。
それがユークリッド原論です。ユークリッド原論というかユークリッド空間ですね。
ユークリッド空間のイメージとしては、xy座標のデカルト平面という方眼紙を我々は思い出します。
まあ単なる方眼紙ですね。方眼紙に原点とx軸、y軸を書けばデカルト平面です。直交座標系です。おなじみのxy座標です。
x軸、y軸というのはもちろん直角に交わっています。交わる点を原点と言います。直行しています。直交座標ということです。直交座標であれば、x,yと二つのパラメータに限定しなくても良いので、パラメータを3つにすれば空間座標になります。
xyz座標ですね。
これは縦横高さのある空間を表示します。
2次元という平面空間から、1つ直交座標が増えたのが3次元空間です。いわゆる立体となります。
デカルト平面の出現によって、図形が代数的に関数で記述できるようになりました。
たとえば、xの2乗+yの2乗=1(の2乗)という関数は半径が1の円を表します。
ある「半径が1の円」というイデアがあったときに、それを図形的(幾何学的にというべきか)記述すると、「ある点から1の距離にある点の集合」であり、代数的に記述すれば、「xの2乗+yの2乗=1(の2乗)」であるということです。それぞれがある円というイデアの影(写像)であるということです。円はリアルの世界にはどこにもなく、想像の世界にしかありません(とプラトンも言います)。
というわけでプラトン先生のお言葉。
こちらは3月の寺子屋の「数学の風景」でも紹介しました。たしか、寺子屋「哲学」でも紹介しています。プラトンのイデア論です。洞窟のたとえは非常に直感的で巧妙です。
(引用開始)
地下にある洞窟状の住まいの中にいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のある方へ向かって、長い奥行きを持った入り口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住まいのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛れれたままでいるので、そこから動くこともできないし、縛めのせいで、頭を後ろへ巡らすことができないので、正面しか見ることができない。(略)
そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互い同士について、自分たちの正面にある洞の一部に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?
彼らの論証の対象は四角形そのもの、対角線そのものであって、図形に描かれる対角線ではない。(略)彼らは思考によってしか見ることのできないものを、それ自体として見ようと求めているのだ。(プラトン「国家」)
「彼らの論証の対象は四角形そのもの、対角線そのものであって、図形に描かれる対角線ではない。(略)彼らは思考によってしか見ることのできないものを、それ自体として見ようと求めているのだ。」
四角形そのものとは四角形のイデアであり、我々はそのイデアを想起しつつ、不完全な写像として四角形をノートに、コンピュータの画面に描きます。
*数学とは写像(Mapping)の連続にすぎない。
ここでイデアが存在すると仮定すれば、それは神の国になりますが、イデアなるものがあってもそれもまた別なそのイデアの写像であり、そのイデアもまた別なものの写像と考えれば、存在論の網の目のネットワークのようになります。仏教哲学で言えば縁によって起こるという縁起です。関係という関数(写像)によって空間から空間へ移動するのが数学です。イデアなるものの写像が円であったり、四角形であったり、対角線であったりします。
地図はその土地ではないと言いますが、地図はその土地の写像(Map)ではあります。
話を戻します!
幾何学とはGeometryであり、Geometryとは土地の測量であり、地球の測量という意味です。
土地の測量と考えただけでも、土地は凹凸がありますが、それを考えてルベーグ積分をしていたらしんどいので、土地はフラットだと近似して考えます。
フラットというのは平らで硬いイメージです。その平らで硬い方眼紙の世界がユークリッド空間の世界です。
このイメージは2000年以上我々の思考形式となり(今も同様ですが)、数学だけではなく哲学や科学の模範となりました(ユークリッドが支配したというよりは、当時の哲学の考え方をユークリッドが原論という形でまとめたというのが正確なのかもしれません。プラトンのアカデメイアの門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と書いてありました)。
ただ土地はフラットではありません。
四ツ谷や渋谷の凹凸をごちゃごちゃと考えるよりも、地球の測量を考えると非ユークリッド幾何学がすっきりと手触りを持って見えてきます。
地球を完全な球体と仮定して考えると、二次元である地上(地面)は球面ということになります。平面ではなく球面です。この球面であるということを「曲率が正」であると言います。平たく言えば、プラスに曲がっているということです。ちなみにマイナスに曲がっているのは谷底のような状態です。凹みですね。そしてプラスマイナスゼロの状態がフラットな土地の状態です。ユークリッド空間です。
地球を考えると、何度も言及しているようにユークリッド幾何学が破綻しています。
とは言え、破綻するのは5つある公準(いわゆる公理)のうちの、5つ目だけです。いわゆる平行線公理です。5つ目の公理だけは公理のような顔をしていないので、仲間はずれでした。しかし実は「みにくいアヒルの子」であったのです。
たとえば、平行線は交わらないとされていますが、地球という球面では平行線はばんばん交わります。経線は平行線ですが(赤道という直線に直行しているので、定義上は平行線です)、なんとすべて交わります。それも二点で。とは言え、これは周知のことです(^^)。北極と南極が経線という平行線の交点になります。
ここで北極点からボールを2つ投げることを考えます。
1つはグリニッジ天文台に向けて経度0度から、1つは東経90度に向けてです。
このときに十分な速度で投げれば、ボールを地上にたどりつくことができなことを我々は知っています。
それに気付いたのはニュートンでした。
すなわち、高い山からボールを投げると放物線を描いて落下するが(まさに名は体を表すで、モノを放ることでできる線で、放物線です)、地球が球体だとすれば(まあ次元を減らして円と考えても同じことですが)、ある速度以上に投げると(第一宇宙速度以上に)落下しても落下してもそれと同じだけ地上も下へ下へと移動します。だから永遠に地球の周りをまわっていると気付きました。
速度の違いによって、近くにポトリと落ちるもの、少し遠くへポトリと落ちるもの、だいぶ遠くへ落ちるもの、地球の裏側で落ちるものといろいろありますが、ある速度以上になると地球を一周します。もちろん第一宇宙速度以上になると地球の重力をふりきります。
ニュートンがリンゴを猛烈なスピードで投げれば月になると気づいた瞬間です(^^)
ニュートンが山から投げるリンゴという図は非常に直感的です。
ニュートンに山ではなく、北極点に立ってもらい(まあある程度の高さが必要でしょうが)そこからそれぞれ90度の方向にリンゴを投げてもらいます。第一宇宙速度で。
そうするとその軌跡は正確に経線を通り、経度0度と経度90度上を移動します。
別れた道は永遠に交差することはないなどと言いますが(ロバート・フロストの「行かなかった道」などを思い出します)実はすべての道はそのまま直進する限りにおいて地球の裏側で重なるということです。交差するのです。
二つのボールならぬリンゴはどんどんどんどん離れていきます。猛烈な勢いで離れていきますが、離れるのは赤道通過地点までです。赤道でもしかしたら焼きリンゴになるかもしれませんが、赤道を通過したあとは驚くことに焼きリンゴ同士が近づいていきます。あれほど急速に離れた二つが唐突に急速に近づきます。
これを検証したい場合は北極点に行く必要はおそらくなく、地球儀で経線をたどれば十分です(それを検証と言うかはともかくとして)。
この二つの焼きリンゴの近づきを見た宇宙人は奇妙な引力をそこに観るでしょう。
無関係に見える二つのリンゴがお互いに近づくからです。
しかし我々はそこには慣性力と重力しか働いていないことを知っています。2個のリンゴ間に引力は働いていません(リンゴの質量による引力などはあまりに小さいので無視します。無視してはいけないと考える人はきっと家のリンゴが磁石のようにくっつくのを見たのでしょう(^^))。
この奇妙な引力が存在するような現象をファインマン先生はこう書きます。
このように地球の球面に沿って進むだけで、引力のような現象が見えることこそが一般相対性理論での重力の理解に一助になるということです。
寺子屋「リーマン幾何学」でも紹介したファインマン力学からの引用です。
(引用開始)
我々がみんな2次元の世界に住んでいて、第3次元で何が起こっているか何も知らないと想像してみよう。我々は平面の上にいると思うだろうが、実は球面の上にいるとしよう。更に、地面に沿ってある物体を打ち出したとし、それには力がはたらいていないとする。この物体はどこへ行くか?それは直線を進んでいるように見えるだろうが、物体は球面をはなれることはできない。球面の上では2点間の最短距離は大円である。それで物体は大円に沿って進む。他の物体と同じように、ただしちがう方向に打ち出すと、これもまた別の大円に沿って進む。我々は平面の上にいると思っているのだから、この二つの物体は時間がたつにつれてだんだん離れていくだろうと考える。しかしよくみると、いったん遠くに離れたあとは、こんどはまた近よってきて、互いに引きあっているようにみえる。しかし、互いに引き合っているわけではないーーこの幾何学には何か”不思議”なものがある。上に述べた例では、ユークリッド幾何学のどこが”不可思議”であるかを正しくあらわしていないが、それでも我々が幾何学を変えれば、引力はすべてなんらかの意味で見かけの力と結び付きうることはわかる。引力に関するアインシュタインの考え方はまずこういったことなのである。(ファインマン物理学 Ⅰ 力学 pp.178-179)
(引用終了)
重力と加速度は見分けがつかないとアインシュタインは言いました。物理学的に言えば等価だということです。
地球上でエレベーターに乗って自由落下しているのと、無重力空間でエレベーターの中にいるのとは区別がつかず、無重力空間でエレベーター型飛行機で加速しているのと、地上でエレベーターで静止しているのも区別がつきません。これも寺子屋「一般相対性理論」でやりましたね。
すなわち、重力とは見かけの力であるということです。
しかし引き合うような現象はなぜ起きるのでしょうか?
結論を急げば、それは空間が歪んでおり、その歪みに沿って進むからということです。焼きリンゴがそうであったようにです。焼きリンゴ同士に引力は働きませんが、それぞれが空間にそって(経線にそって)進むことで、二つの焼きリンゴは近づきます。
しかし、それは従来の幾何学では説明がつきません。従来の幾何学とはユークリッド幾何学です。硬い空間の幾何学です。ぐにゃぐにゃと曲がらない空間の幾何学です。その硬さゆえにニュートンは絶対空間をユークリッド空間として考え、カントもアプリオリな総合判断な思考形式としてユークリッド空間を考えました。しかしそれは宇宙の姿とは少し違ったということです。
むしろリーマン幾何学を使うほうが、宇宙を記述しやすいとアインシュタインは考えました。
すなわち、「我々が幾何学を変えれば、引力はすべてなんらかの意味で見かけの力と結び付きうることはわかる。」のです。
幾何学を「地球の測量」と考えると、幾何学という言葉にはユークリッド幾何学はもちろん非ユークリッド幾何学と呼ばれるリーマン幾何学も含まれることが分かります。地球を測量したら、平行線は交わるし、内角の和は180度以上になります。ただこれはユークリッド空間が否定されたということではありません。ユークリッド空間は曲率が0の空間であり、球面であれば曲率が正、凸面であれば曲率が負と定義が変わっただけです。ユークリッド幾何学はリーマン幾何学に包摂されたのです。
というわけで、幾何学をどんどん変えていきましょう!
次回はヒルベルト空間へ移動します!(多分)
*寺子屋で圧倒的な知性を身に付けましょう!3月は人体解剖学と生化学!
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それでも我々が幾何学を変えれば、引力はすべてなんらかの意味で見かけの力と結び付きうることはわかる
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