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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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体質改善とは自我という関数を書き換える作業と考えるとスッキリする(かも)

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体質改善とは自我という関数を書き換える作業であると考えると、かなりすっきりと構造が見て取れるのではないかと思います。

人はパンのみに生きるにあらず」ですし、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。」です。もちろん聖書が権威なのではなく、単なる古典からの引用です(シェイクスピアから引用したとしても、それがシェイクスピアを聖典としていることにはなりませんし)。

関数というのは入力と演算と出力からなる系です。

入力 ⇒ 関数(演算) ⇒ 出力

ということです。

言いかえれば、

input ⇒ f ⇒ output

fはfunctionのfです。機能であり、演算のfです。

写像と言い換えても同じです。

行列ではないですが、変換と言っても良いと思います。
移動です。ワープのようなイメージです。

ちなみにワープというと、あまりイメージができないかもしれませんが、シンプルに考えてみましょう。

2と3という2つの並んだ素数を入力として、和という足し算を関数もしくはアルゴリズムとします。

そうすると、2+3で5という場所へ移動します。2と3というのは、数直線ならぬ数平面(そんな言葉は無いのでしょうが、複素平面とは数平面です)の中で、5というところへ、ポンと移動するということです。

いや数直線でとりあえず考えると、横浜を原点に東京と宇都宮を演算したら、福島に飛ぶようなイメージです。横浜を原点に、東京が2,宇都宮を3として、足し算すると福島に飛ぶような感じです。演算が掛け算であると、福島ではなく仙台に飛びます。このワープが関数であり、演算のイメージです(...。むしろ分かりにくい?)。

先日の「数学の風景」講座(寺子屋)では、数字とは複素数であると学びました。
1,2,3,4,5という牧歌的な自然数はもう我々の目の前には存在せず、それは1+0i、2+0i、3+0i、4+0i、5+0i、でしかないということです。

数年か数十年したら、孫と一緒にお風呂に入りながら、「じゃあ100までかぞえてごらん」と言ったとすると、「条件が足りないよ」と言われるのかもしれません。「原点から?それともたとえば傾きが複素平面において1として?0ー100iから?」などと聞かれるのでしょう。

1,2,3...



0-100i, 1-99i, 2-98i ・・・・100ー0i

も等しく一直線上に数をかぞえています。

もちろん数をかぞえるという作業も関数です(一般にはプラス1という関数)。いわばドミノ倒しで、ペアノの公理と同じく、一歩一歩「数」が生成される行為です。



この数直線を考えると、足し算や引き算という関数は空間(加減の場合は点)の移動であり、写像であり、変換であるというイメージができやすいのではないかと思います。

行列なども、数が碁盤の目のように行と列に(横と縦)並べたものと考えないで、移動を媒介する酵素のようなイメージで良いと思います。化学反応を媒介する酵素のように自身は変わらず入力値を変える酵素のイメージです。ただ生化学と異なり(いや、ある意味では同じかもしれませんが)、その酵素自身も入力値になるのが面白いのかもしれません。行列とは我々をワープさせてくれる乗り物ということです。

翻って、身体ということを考えます。

Yogaに言われるまでもなく(経典に言われるまでもなく)、身体とは我々の乗り物です。
どこかへ行くときには必ず身体を用います(情報的に移動するとしても、脳という身体を使います)。
ちなみに何が乗っているかと言えば、それは円と中心点の関係と同様です。魂が身体に乗っていると考えても、ホムンクルスが身体を操作していると考えても構いませんが、じゃあ魂とは?ホムンクルスとは?と考えると、たまねぎの皮むきや、円と中心の関係と同じです。コアがないのです。
たまねぎの皮をむきながら、実を探そうとしても、実がいつまでも見つからず、そのうち涙で何も見えなくなります。たしかに中心点がないと円は描けませんが、円という二次元平面上に描かれた一次元の線に対して、中心点は点という0次元の存在です。無いと言われたら困ります。座標は存在するので。ただあると言われても、姿も形もありません。

もしくはディズニー映画のCarsのようなものです。車は彼らの乗り物でありながら、彼ら自身です。



しかし自我なり魂のような乗る者はどこにいるのか?
これは単純に物理抽象度の上にあると考えるのが妥当ではないかと思います。
すなわち膨大な情報処理の世界にぼんやりと浮かぶものです。

生命は分けても分からないのではなく、物理抽象度だけしか宇宙が存在しないという思想にとっては、「生命は分からない」ということです。足し算・引き算しか知らない人が微分・積分が分からないのと同様です。それは存在しないのではなく、分からないだけです。分からないから見えないのであり、見えないから存在しないのです(その宇宙には)。


で、身体を関数として考えると、入力値についてだけ考えるのは全く見当違いであることが分かります。

それがイエスの意図なのではないかと思います。

人はパンのみに生きるにあらず」であり、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。」です。

同じ入力をしても、足し算という関数と掛け算という関数では異なる出力を吐き出します。

まあ、

2×2 と 2+2

のような例外もありますがw

100と200であれば、

f(100,200)が足し算であれば300ですし、掛け算であれば20000です。

ですので、入力値もたしかに大きな要素ですが、出力値を変えたければ、関数を変えるのが手っ取り早いということです。というか、それしか方法が無いと言っても過言ではありません。

糖質制限がしばしば入力値のみの議論になってしまうのは非常に不毛です。

悪いのは糖質ではなく体質です。

体質を改善すれば、体質という関数が変わった結果として、出力が変わります。その出力とは単なる体重とか体脂肪率、筋肉量などではなく、生活の質、性格、IQ、気功の能力などすべてが変わります。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

とイエスは言います(マタイ6:25)。

イエスはその宗教という帰属集団(ユダヤ教)は別として、偉人であり、その言葉を集めた書籍は人類の偉大な古典です。そこから引用します。偉人と古典は人類の共有財産です。管理人しかその財産を使えないわけではありません(マンションでも国家でも管理人は単なる管理を委託されている者なのに、所有者であり主権者のような顔をすることがあります。勘違いも甚だしいw)。

(引用開始)
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

(引用終了)

聖書というのはうっとりするほどの名言の宝庫です。
マタイの6章25節から34節までたった10節ですが、次々と名言から名言への綱渡りです。
味わいたいものです。

とは言え、圧縮すると(理解とは圧縮なのでw)、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」であり、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」です。

神の国と言えば、大事なところできっちりいつも失言される(意図的なのではとすら思えます。炎上マーケティングとして)某政治家を思わせますが、それとは全く無関係です(ジョークです)。

文脈であり、文化背景がありますので、それを我々風に翻訳すれば、まず「アイデアルな世界とそこでの公理を求めよ」ということです(多分)。

アイデアルな世界とは理想的な世界でも、イデア界でも良いですし、ゴールの臨場感でも良いでしょう。理想の自分、理想の社会、望ましい自分象や社会でも良いと思います。そしてそこでのルール、もしくは公理、義をまず求めよ、ということです。

この「求めよ」というのが良いなぁと思います。

「答えは自分の中にある」などというスピリチュアルの傲慢と妄信とは別にイエスは「求めよ」と言っています。そして「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節ちなみにこの直前が「豚に真珠」です。いかに聖書が名言の宝庫かが伺えます)。

もちろん、熱心に求めたとき、そして与えられたときに(ここで誰からという質問は不要で、これも厳密には宇宙から、もしくは自らということでしかないのですが、ただあえて「与えられた」というPassiveな表現がヒューリスティックには妥当です。見つけるのではなく、与えられるのです。能動的ではなく、熱心に求めた結果として受動的に得るのがゴールの臨場感です)、「ああ、答えは自分の内にあった」という感慨を得るのは事実です。その意味で時系列を間違えなければ、スピリチュアルの妄言も妥当だということです(ただすでに「ある」のではなく、やはり「探すことで見出す」ものだと思います。Let it be ではなく Let it goです。演算があるのです)。

ですので、我々としてはまずゴールなり、必ず叶えたい夢なり、願望、切望、祈りがあって、それだけで十分ということです。

強烈なゴールがあれば、それが場を歪めて、なぜかそれが実現するように周りが協調します。それは人だけではなく、場も空気も鳥や虫や川のせせらぎすら(という印象です)。

ですから、まず「神の国(笑)」を求めましょう。自分の理想世界を明確に求めることです。

そのあとにすべては「添えて与えられます」。




*蛇足ながら、糖質制限の方法について聞かれる事が多いのですが、一方で「まといのば」流の体質改善(糖質制限を含む)をスタートさせて結果を出している人からすれば(「まといのば」が認めて、その指導の下に実践している方々)、必要なノウハウはすべてはすでにブログに詳細に書かれていると言います。それがスコトーマに隠れて読めていないということは、逆にまだ「神の国」(自身のゴール)が求められていないわけであり、すなわちまだ時期尚早ということです。急がないことです。


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