ある若い教員が大学の講義を依頼されます。
それは文学の講義。
シラバスには読んだことのない書物が並んでおり、その解説を任される、、、。
読んだことのない書物を扱う文学の講義を大学から頼まれるというダブルバインドな恐怖。
仕事は引き受けたい、しかし自分はそれにふさわしくない(まだ読んでもいない)、引き受けたら、地獄のような自転車操業が待っている(大著を次々と読みながら、それを解説していかなければならない)という、やりたいけど恐ろしいというダブルバインドな恐怖です。
この話しは、同じく帝国大学の教授であったある先生の話しを思い出します。
あるときに懐手をしている生徒がいたので、先生は怒って、彼のそばまで歩み寄って「懐から手を出せ」と言います。
c.f.殺人を無罪にする方法 〜心の強さではなく、ホメオスタシスの強さを信じる〜 2017年06月28日
そうすると、見かねた彼の友人がこう言います。
「彼は腕がないのです」と。
そのとき、とっさに一休さんは(←違うから)頓智を効かせて、こう答えます。
「君、僕も無い智慧をふりしぼって講義をしている、君も無い手を出してくれたまえ」と
これを聞いた若い頃は、ひどいことを言うと思っていたのですが、今では漱石先生の気分が分かります。大人気だった小泉八雲の後を継ぐことのプレッシャーに負けて(そして華厳の滝に教え子を飲み込まれ)朝日新聞に逃げ出しました。
彼もまた読んだことのない大著の解説講座を任されるようなもので、必死で泥縄的に生きていたのでしょう(多分)。
この話は夏目漱石が「僕もない知恵を出しているのだから、君も無い腕を出してくれ」と言ったことも思い出します。
東京帝国大学の教授であった夏目漱石があるとき懐手をしている生徒を見咎めて、怒ったという話です。手を見えるように出すよう、何度も求めた漱石に対して、見かねた他の学生が彼は腕が無いんです、と回答します。
それに対して漱石は「僕もない知恵を出しているのだから、君も無い腕を出してくれ」と言って、その場を収めたと言われます。
これは本当にひどい話しだと若いころの僕は思ったのですが、いまはよく分かる気がします。
本当に「無い知恵を」絞りだす日々だったのではないか、と。
夏目漱石もまたキツくなってきたところから延々と知恵を絞り、そして日々生きていったのだと思います。
上は2015年の記事ですが、最近もこんな記事を書いています。
c.f.普通に頭にピストル突きつけられたら、マジでみんなやりますからね(ドラゴン細井) 2022年07月03日
その漱石が生徒の一人を叱責したことがあるそうです。
その生徒は懐手(ふところ手)をしており、手を袖から出さないで授業を受けていたそうです。
その失礼な態度に漱石は怒ったのですが、真相は違いました。
その生徒は手がなかったのです。
それを知った漱石はこう切り返します。
「僕も無い知恵を振り絞ってこうやって講義しているのだから、君も無い手を出してくれ」と。
まあ、そんな意味の説話があります。
若い時分にこれを聞いたときは、漱石に対して批判的だったのですが、年老いてきてからは、「ああ、そうか、漱石先生もまさに無い知恵をなんとか振り絞る日々だったのだな」と思うようになりました。
もう1つはエミネムです。
娘を思う強烈な歌です。
AA(アルコホーリクス・アノニマス)などの薬物中毒からの離脱を目指す団体のミーティング(体験の分かち合い)を模した印象的なオープニングから始まります。
まだ若いですねーーエミネム。
その歌詞の中で、幼い娘が「パパ、遊んで」とせがむのを振り払って、こう言います。
"Daddy, where's Mommy, I can't find Mommy where is she?"
「パパ、ママはどこにいるの?ママが見つからないよ、ママはどこに居るの?」
I don't know, go play, Hailie baby, your daddy's busy
知らないよ、さあ遊んできな、ヘイリーちゃん、パパは忙しいんだ
Daddy's writing a song, the song ain't gonna write itself
パパは歌を作ってるんだ、歌は放っといても書かれないからね
これが当時の僕には悲痛な叫びに聞こえました。
たしかに、歌詞は自分では勝手に書かれてくれはしないのです。何も無いところにゼロから生み出さなくてはいけません。
そしてそれがとびきり良いことを期待され続けるのです。それ地獄です。
漱石もエミネムも無い知恵を絞り、不可能を可能にし続けてきていると思います。
どちらもロシアンルーレットのように自分の頭に自分で銃口を突きつけ続けているのです。
"Daddy, where's Mommy, I can't find Mommy where is she?"
「パパ、ママはどこにいるの?ママが見つからないよ、ママはどこに居るの?」
I don't know, go play, Hailie baby, your daddy's busy
知らないよ、さあ遊んできな、ヘイリーちゃん、パパは忙しいんだ
Daddy's writing a song, the song ain't gonna write itself
パパは歌を作ってるんだ、歌は放っといても書かれないからね
みんな銃口を頭につきつけて追い込んでコンテンツを作り続けているのですが、たまにその銃口が頭を吹き飛ばしてしまうのです。
普通にここ(頭)にピストル突きつけられたら、
マジでみんなやりますからね
その感覚を自分でできる人が強いっていうことですよ
一応、大事なことなので、繰り返しますが、他人から強制されてやるのは普通のこと、自分で自分に銃口をつきつけてやるのが偉大なこと(「その感覚を自分でできる人が強い」)。
冒頭の話しはどこに繋がるかと言えば、ピーター・ティールの恩師であり、精神的支柱である(多分)、ジラール教授の話しです。
ジラール教授は学者生活の初期に大学の講義を依頼されます。
担当して欲しいという文学の講義は、読んだことのない書物を扱う授業でした。
シラバスに書かれた小説をぎりぎり間に合うように読んで、ギリギリで講義することもしょっちゅうだったそうです。
小説と言っても、、、、セルバンテス、スタンダール、フローベル、ドストエフスキー、プルーストです、、、そりゃ半端ないですね。
それを次々と読んでは講義をしなくてはいけないわけです。すごいこと。
正式な教育を受けたことがなく、早く読む必要があったことから、ジラールは文章のなかにパターンを探しながら読むようになった。そのうちあることに気づいて当惑した。それは読者をひきつけてやまない不朽の小説のほぼすべてに存在しているように思えた。こうした小説のなかの登場人物は、ほかの登場人物が欲望に値するものを示してくれるのをあてにしているのである。自発的に何かを望むことはない。誰かの欲望は、その人の目的や行動ーーとりわけ欲望ーーを様変わりさせるほかの登場人物との交流によって形成される。
ジラールの発見は物理学におけるニュートン革命のようなものだった。物体の運動を支配する力は関係の文脈のなかでしか理解できない。欲望は重力のように、ただ一つ、あるいはただ一人のなかに独立して存在しない。それは両者のあいだの空間に存在する。
それもジラールは正式な教育を受けているわけではなく、ゲリラ的な独学であり、そして大著を楽しんでゆったりとした気持ちで読んでいる余裕はありません。授業の時間が迫る中で急いで読み進めなくてはいけません。
だから、ジラール教授は、、、
正式な教育を受けたことがなく、早く読む必要があったことから、ジラールは文章のなかにパターンを探しながら読むようになった。そのうちあることに気づいて当惑した。それは読者をひきつけてやまない不朽の小説のほぼすべてに存在しているように思えた。
重要なのは「読者をひきつけてやまない不朽の小説のほぼすべてに存在している」パターンを見つけてしまったのです。それもシンプルなパターンです。しかし、ジラール教授以外は、意外なことに誰も見つけられなかったのです。
それが、、、、
こうした小説のなかの登場人物は、ほかの登場人物が欲望に値するものを示してくれるのをあてにしているのである。自発的に何かを望むことはない。誰かの欲望は、その人の目的や行動ーーとりわけ欲望ーーを様変わりさせるほかの登場人物との交流によって形成される。
ということです。
自発的に何か望むことはないというのが良いですね。
ここで村上春樹の小説を思い浮かべてしまった方は幸いです。
僕は川端康成を思い浮かべました。踊り子の欲望をミメーシスしてしまった川端康成少年の転落の物語とか(転落する前に脱出できましたが)。
c.f.子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がるほど 2022年03月25日
繰り返しますが、ジラール教授が発見したのは以下のシンプルな法則です。
こうした小説のなかの登場人物は、ほかの登場人物が欲望に値するものを示してくれるのをあてにしているのである。
すごいことです。
ここにミメーシスのすべてがつまっています。
そして著者によって、もっと大胆にまとめられ、あたかもグレゴリー・ベイトソンのようです。
そうしてみるとグレゴリー・ベイトソンの木こりの魂はどこにある?という命題がふとよぎります。
木こりの魂は木こりそのものでも、斧にでも、木にあるわけでもなく、その関係制の中に生まれるものだということです。
c.f.脳の使い方をマスターしたら人類は次はどこへ行くのか? 2012年09月02日
物体の運動を支配する力(重力)は関係の文脈のなかでしか理解できない、、、すなわち縁起なのです。
そして、緊張だけではなく、痛覚だけではなく、欲望もまた「両者のあいだの空間に存在する」のです。
すなわち、縁起であり、関数現象であり、ファンクショナリズムです。
人間というのは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのか決して知れないのである。(ミラン・クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)
*そう言えば、最近、紀伊國屋書店に行ったら、この『存在の絶えられない軽さ』が平積みされていました。