ブランディングとコーチングが違うという話がよく分からないとメンバーの方から質問がありました。
c.f.やりたいこととやれることの間(はざま)で〜ブランディングはコーチングではない 2023年10月04日
質問は歓迎ですし、よく考えた上での質問は大歓迎です。
ただ、分かりにくい文章を書くのが「まといのば」の専門であり、「まといのば」は教育機関であると同時に、具体的に成長させることを意図しているので、わざと分かりにくく書くことを専門としています(分かりにくいものを考えるのは大事。肥料を与えられたら、根がサボり、土壌細菌が途絶え、でも果実はぶくぶく太ります)。
そもそも結論だけ書くと、それで何かを分かった気になるのが、愚かな人間の習性です。
重要なのは分からないものを必死で考えるプロセスです。
ですので、分かりそうになったら、回答までの道のりが一本道になり、複雑性が減ってきたら、あえてそこにちゃぶ台返しのように複雑性を放り込むのが、「まといのば」の仕事です。
とは言え、あまりに複雑だと誰からも読まれないので、その塩梅が難しいところです。
(またあまりに複雑に書きすぎて、未来の自分が読解できないのも厄介なので、最近は説明過剰くらに書いています。それでも読めない人は読めないので)
まず、ブランディングとコーチングに関しての結論はきわめてシンプルです。
自分ができないことを、クライアントに約束するな、というだけです。
自分がやりたいこと、自分ができたらいいなと思うことを、ビジネスとして、クライアントさんに対して、こんなことを私はできますと嘘をつくなというだけのことです。
それよりも自分にとって圧倒的に簡単なことを、クライアントさんに対して約束しましょうということです。
圧倒的に簡単なことが価値がないわけではありません。
T理論における剰余価値はこんな説明をします。
ある人がみかんの木を育ててていて、たくさんのみかんを持っている。食べきれないほどのみかんがあり、余っていても腐ってしまうだけ。
また別の人はリンゴの木を育ててていて、たくさんのりんごを収穫したけれど、食べきれないほどのリンゴがあり、余っていても腐ってしまうだけ。
そんな二人が市場という世界のEdgeで出逢うと、相手の手には魅力的な美味しそうな果物があるわけです。
自分にとっては有り余るものが、相手にとっては希少性の高い価値のあるものとなるのです。
それは相手にとっても同じ。
そのときに「いや、この果物はありふれていて、ありあまっていて、あってもゴミになるだけだから、あげるよ」とは売り込まないはずです。
いかに美味しい果物であり、病を退け、生活にいかに潤いを与えるかをしっかり説明して売り込むでしょう。
余っているものが価値になるとT理論では教えます。
逆に手に入らない果物を予約販売して、結局それを手に入れられなかったら、単なる詐欺です。
そんな詐欺をしなくても、僕らは有り余っているありふれいてる果実をたくさん手にしているのです。それを適切な相手に適切に売り込めば、相手も喜び、僕らも楽しいわけです。
ただ、これは非常に難しいようです。
多くのヒーラーが自分が楽しいこととビジネスの区別がつきません。
自分が楽しいことは、ヒーラーではなく、生徒として楽しいことである場合が多いのです。
自分にとって凡庸で当たり前で普通なことが、自分のクライアントにとっては見知らぬ美味しそうな果実です。
そしてクライアントさんが、その自分にとっては凡庸で当たり前で普通なことに対して、奇跡や感動や劇的な人生の変化を感じてくれることが、僕らの喜びです。コンテンツが楽しいのではなく、クライアントの変化や成長が喜びなのです。その喜びがズレているから、いつまでもクライアントさんからは発見されないのです。
猫にドッグフードを出して、「早く餌を見せろ」と言われている状況です。
これが1つ目です。
もう1つは、これもなかなか難しいのでしょうが、混沌(もしくはランダム)や秩序(オーダー)というのは相関名辞であるということです。
c.f.僕らは世界という巨大なパチンコ台に翻弄されるパチンコの玉ではない〜混沌は知性に依存する 2023年10月05日
ニュートン力学を説明するときにビリヤードを用いたり、エントロピーを説明するときにコーヒーに落としたミルクを用いるのは、寅さんのテキ屋のセリフのようなワンパターンです(でも、ワンパターンが重要で、それをパチンコ台とか変えて見せるのはあまり良いとは言えません)。
相関名辞というのはマクスウェルの卓見です。
c.f.PとCに(順列と組み合わせ)ビックリ!(階乗)しないでエントロピーを考える。 2013年09月22日 テーマ:寺子屋
「これを踏まえると、エネルギーの散逸という概念は、我々の知識の程度しだいということになる。取り出せるエネルギーとは、望ましい経路ならどんなものにでも導くことのできるエネルギーだ。散逸したエネルギーとは、手に入れることも、意のままに導くこともできないエネルギーで、たとえば、我々が熱と呼ぶ、分子の混沌とした運動状態がそれにあたる。ところで、この混沌とは、相関名辞と同様、物質自体の属性ではなく、それを認識する心との相関によって規定される。」
「散逸したエネルギーという概念も、自然界のエネルギーをまったく利用できない者や、どんな分子でもその動きを追いかけて、適時に捉えることのできる者の頭には浮かばないはずだ。両者の中間にいて、うまく利用できるエネルギーも、指の間を擦り抜けていってしまうエネルギーもあるような者にとってだけ、エネルギーは取り出せる状態から散逸した状態へと必然的に移ろうように見える。」
僕らが客観的な実在だと思っている混沌(もしくはランダム)というのは、知性や知識に依存する関数だということです。
生命素粒子が構造化されている過程で、そこに知性が垣間見える瞬間があります。
僕らが書物や誰かの講演に知性を感じるのであれば、それは本質的にはその構成要素である生命素粒子に知性を感じていることになります。
何か物体を観測しているときに、それは分子を観ており、原子を観ており、素粒子を観ているのと同じです。最小単位を超弦(超ひも)とするならば、我々は目の前に超弦の振動を観ているわけです。同様に我々が物理を含め情報を観ているときは、理論的には(現実にも)生命素粒子を観ているわけです。
そしてその物理的な存在が知性を持つと考えるならば(たとえばあなたの師匠やメンターが話しているのを見るならば)、それは生命素粒子の振る舞いを観ているのと本質的には同じです。
その上で、理解したいのは、知的であるとは客観的な指標があるわけではなく、その観測者との相関名辞であるということです。
たとえば、それに関連して、最近、非常に面白い言説を目にしました。
Dr.Tのかつてのスタッフであり、カメラマンであり(僕もお世話になりました)、書籍も出版した方が、Dr.Tが行っているのは宗教洗脳と同じであるという議論をメルマガで展開していて、非常に興味深く思いました。
彼が根拠としているのは、、、たとえばこんな風に書いてあります。
自身の著書で
「部分情報しかない人間が完全情報である
神を認識することはできない」
と書いているのに、
次のページでは
『神はいないことが証明された!』
と書かれていたりするんです。
あれ?読み間違ったかな?と思って
ページを戻して何度読んでみても
その結論がどこで起こっているのか
一切、書かれていません。
面白いなーと思います。
編集者というか編集者兼ライターまでされていたのにも関わらず、読むことに不自由な人なのだな、と。
そのあとに不在証明という悪魔の証明の難しさを語るのですが、、、、もう本当に、、、。
(不在証明が悪魔の証明であるのは事実です。しかしそれを神の不在証明にまで拡張するのはとてもオリジナリティあふれます)
そもそも神の不在証明はDr.Tの議論ではなく、グリムの定理です。そう御本人も書いています。
で、神は定義上全知全能であるというのはキリスト教の教義です。全知全能であるというのは、完全で無矛盾な公理系であると言えます。そしてそのような公理系が存在できないことをゲーデル先生が不完全性定理で証明しました。それはカントールの対角線論法を応用することで、たとえ命題が無限に存在していても、ある程度のサイズ以上の公理系であれば、そこには不可避的に決定不能命題が存在することを示したのです。決定不能命題が存在することが、その公理系の完全性を壊し、それが完全な系(システム)としての神の系を壊したのです。
ニーチェのようにただ宣言したのとは違うのです。
c.f.「どうしてバレリーナの卵の私がゲーデルの不完全性定理を学ばなければいけないの?」 2010年09月23日
「不完全性定理」という言葉で検索したら、最も古そうなのはこの記事でした。最近、注目されている技術についての解説記事です。
御本人が読み飛ばしているだけなのに、それを著者の責任に転嫁して、あまつさえ根拠なき議論だとか、洗脳だとか暴言を吐いてしまうのは、非常に面白いと思いました。
200冊近く書籍を出している著者に向かって、アメリカで博士号を取っている認知科学者に対して、それも幾度となく議論されていることに対しても、こんな風に、かつてのスタッフから歯向かわれるのですから、世の中とはそんなものだと思うしかありません。
それも根拠なく断定しているのは、批判者ご自身です。その根拠は自分がセミナーに行って、そう感じたということでしかありません。それはご自身の感想であって、感想を抱くのは問題ないので、その感想から始めて、きっちり事実に基づき論理を構築すべきです。いや、その前に文章を読むべきでしょう。
と、言っても、読めない人には読めません。
すなわち、客観的に明らかに知的な文章であっても、そこに知性を認めるかは観測者の知性に依存するのです。マクスウェルの言う通りであり、生命素粒子理論の「知的」の項目とも一致します。
ある視点で観れば、ランダムに見えることも、ある視点で観れば方向性が明確にあるのです。
アリにとっては、ランダムに天が降ってくる災厄だとしても、人間から観ればどこに向かって歩いていくか想像がつくのです。
Dr.Tは「コイントスして表が出るか裏が出るかは、たしかに確率論的だが、コインを投げている人が存在する(その意図も)」とおっしゃいます。意図があるから、その確率が生まれるのです。コインを投げなければ、その確率そのものが生じません。
非常に傲岸な言い方かもしれませんが、公開されているT理論は非常に簡単なのです。
小学生でも理解できるレベルの議論でしかありません(あくまでも「公開されているT理論」です。T理論にも途方もない階層性があります)。実際に小学生に解説をしました。
c.f.「どうしてバレリーナの卵の私がゲーデルの不完全性定理を学ばなければいけないの?」 2010年09月23日
大人は、自分が新しいことを学ぶことに不自由であることを知らないので、新しいことを学ぶことに不自由なのです。
もう少し謙虚に学べれば、もっと飛躍できます。
Dr.Tの言葉の1つに「コーチングの目的は自分が馬鹿であることを知ること」というのがあります。「馬鹿じゃなかったらコーチングはいらないから」と。
コーチングの基本原理は「エフィカシーを上げること」ですが、自分の現在地を知ることは、ゴールの達成能力を上げることに繋がります(この最終段落だけを眺めて、せっせと批判する人のために蛇足ながら、この行を足します)。
【ランキング御礼】
記事ランキング3位、総合ランキング4位をいただきました。
いつも応援ありがとうございます。
また、6位にRayさん、8位にemmiがランクインしていました。
c.f.時間と空間をワープしながら、チャンスの飛び石をたどってゴールへ向かおう〜過去ではなく未来が原因 2023年10月03日 テーマ:講座案内 公式ジャンル記事ランキング:整体・リラクゼーション3位(まといのばブログ)
c.f.自分(自我)という関数を外して観る(考える)と、世界はもっとシンプルになってわかりやすくなる♪ 2023-10-03 テーマ:Rayスクール・Ray式 公式ジャンル記事ランキング:整体・リラクゼーション6位(Rayブログ)
c.f.「レッドダイヤモンド」の感覚がない?〜「小股が切れ上がった」身体の気持ち良さ〜 2023年10月04日(水) テーマ:ブログ 公式ジャンル記事ランキング:整体・リラクゼーション8位(emmiのブログ)