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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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「芥子、須弥を入る」という華厳とはエッシャーの「写像球体」のような無数のミラーボールの饗宴

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僕らの子供の頃は、

 

芥子(けし)、須弥(しゅみ)を入(い)る

 

と習ったものです。

 

須弥とは須弥山のこと。神話上の巨大な山であり、もちろん世界の中心を為すとされているものです。

 

 

いつも僕はこれを観るときに、重なってしまうのが、バベルの塔です。

 

 

須弥山はシュメールに通じるという話は繰り返しています。

エデンの園もまたシュメールでした。

 

芥子(けし)、須弥(しゅみ)を入(い)る

 

の芥子(けし)は芥子粒(けしつぶ)の芥子(けし)です。

 

芥子粒のような小さな世界にも宇宙が包摂されているということです。

 

 

 

我々の身体の細胞のどの一つを取っても、進化の歴史だけではなく、宇宙創生の歴史を踏まえているのです。それらのどの部分が欠けても、この身体は存在しません。

 

 

宇宙創生については、サイモン・シンをこのブログではずっと薦めています。

 

この「芥子、須弥を入る」について、実際の仏典では、たとえば、

 

一一(いちいち)の微塵(みじん)の中に、仏国海(ぶつこくかい)が安住(あんじゅう)し、仏運(ぶつうん)が遍(あまね)く護念(ごねん)して、弥綸(みりん)して一切を覆う。

一つの微塵の中に於て、仏は自在力を現じ、一切微塵の中に、神変することも亦(また)是(かく)の如し。

諸仏(しょぶつ)及び神力(じんりき)は、盧遮那の示現(じげん)したもうなり」。(以下略)

(晋訳『華厳経』盧遮那仏品第二之二大九巻四一〇中ー下)

 

があります。

 

平たく言えば、「一つ一つの小さな塵の中に偉大な仏の国がふくまれている」ということです。

 

中村元先生の解説を続けると、

 

「塵ということばはサンスクリット語の原文では「アヌ「anu」」「パラマーヌ(paramanu)」(略)インドの自然科学的思考では原子のことをいうので西洋の学者はこれを「アトム(atom)」と訳しています。そのアトムの中に偉大な世界がある、極小の中に無限大を指示する、ということをここではいっているわけです。

 

また、引用した最後の一行には

 

諸仏(しょぶつ)及び神力(じんりき)は、盧遮那の示現(じげん)したもうなり」

 

とありますが、ここでの盧遮那とは、言うまでもないことながら、毘盧遮那仏のことです。

 

毘盧遮那仏と言えば、奈良の大仏様です。

これは中村元先生によれば、『華厳経』の表現する仏です。(p.14)

奈良の東大寺は、この華厳経の大本山で、有名な明恵上人も華厳宗の人です。

明恵上人と言えば、子供の時分に死のうと思い、自殺するのはいけないから、墓場に行って、死体をむさぼり食う狼の餌食になろうとした人です。

この強烈なエピソードが気功技術の「物忌」に繋がっています。

 

 

「僕らは星のかけら」との関連で言えば、こんな一節もあります。

 

「身体の一つの毛穴のうちに、一切の国土の原子の数ほどもある、大海のような広大な仏国土が含まれている」(p.72)

 

 

僕自身は師匠から華厳経について、ミラーボールだと習いました。

 

世界を映すミラーボールのようなものがあり、そのミラーボールは世界を写像している。

そのミラーボールが2つあれば、合わせ鏡のようにお互いを映し合う、3つあればお互いに反射し合う。そんなミラーボールが無数にあり、お互いに照らし合っているのが華厳の風景だ、と(記憶が曖昧なので、書き記すのに抵抗がありますが、こんな感じです)。

 

そのミラーボールとは、たとえば、こんなイメージかと僕は思っています。

 

 

 

ちなみに、上野の東京都美術館には、エッシャーのこの『写像球体を持つ手(1935年)』のような作品があります。

 

東京美術館:井上武吉 《my sky hole 85-2 光と影》 1985年

 

エッシャーの「写像球体を持つ手」を理想的に考えれば(たとえば、光がニュートリノのように通過するものとするならば)、宇宙全体がそこに写像されます。

 

このようなミラーボールがいくつもいくつも無数に存在し、お互いにお互いを映しながらキラキラと輝いているのが「華厳」の風景だ、と。

 

すごい光景です。

 

 

一切の世界海は、世界海の塵の数の因縁有りて具わるが故に成ず。已に成じ、今成じ、当に成ずべし。

 

すべての世界の海は、無数に多くの因縁によって成り立っている。すべては因縁によってすでに成立しており、現在成立しつつあり、また未来も成立するであろう。(略)ことばをかえていうと、すべてのものは因縁によっておこるというわけです。なにも一つの絶対的な原因から何かがおこるのではなくて、ものがおこるためには主要な原因もあるだろうけれど、また副次的な原因が無数にそこに加わっているというわけです。(略)真理の世界と現象の世界とは、お互いに溶けあっていて、とどこおるところがない、それを無碍といいますが、融けあってつながりがある、現象と本性との間につながりがあるというわけです。これが「理事無碍法界」です。(同上pp.28-31)

 

ちなみに、華厳経の「厳」という字は「きびしい」という意味ではありません。

むしろ美しく飾るという意味です。

 

「厳」という字は、きびしいというような意味で一般には使われていますが、仏典では「美しく飾る」という意味で使われます。したがって「華厳」とは「いろとりどりの華によって厳(かざ)られたもの(雑華厳飾(ぞうげごんじき))」という意味で、すなわち「蓮華蔵(れんげぞう)世界」にほかならないと解されています。(p.13)

 

 

ヒプノの究極系とも言える「華厳」を今月のBody DesignBootCampにおいてローンチできたのは幸いでした。

 

あとは現状の外の圧倒的にやりたいことだけです。

そのGoalだけがあなたの華厳をBootしてくれます。

 


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