「その気功技術は何に使えますか?」と聞かれることがあります。
天の邪鬼な僕としては、
「その気功技術を何に使いたいですか?」と聞き返したくなります。
実存は本質に先立つのです。
気功技術という現実存在はその機能やその本質に先立って、我々の前に現れるのです(いや、これはサルトルをもじったジョークです)。
「その気功技術を何に使いたいですか?」という質問は、より本質的には、「その技術を使っても叶えたい夢は何ですか?」という質問につながっていきます。
キャンパスに黄色の何かを描きたいときに、黄色い絵の具を使うようには、気功技術はできていません。
機能があって、気功技術があるのではなく、気功技術があって、機能はそれに続くのです。機能はあとから見出されるのです。
具体的な事例で紹介します。
たとえば、腸腰筋を活性化させると言われる「腸腰筋」という気功技術があります。
これは腸腰筋群のみに使うと思いきや、たとえばあるヒーラーはチャクラの調整に使い、あるヒーラーは足首の捻挫に使います。
「腸腰筋」という名前をつけられた超情報場の構造物をどう使うかかは、そのヒーラーがどれほどその道具が手に馴染んでいるかによるのです。
名前に意味はなく、自分が感じている超次元的な構造物の感触にのみ意味が生じます。
c.f.「名前に何があると言ふの? 薔薇の花を別の名前で呼んでみても甘い香りは失せはしない」 2017-11-06
(名指し=名付けは、支配のために行います)
超次元的な超情報場の構造物の感触のことを我々は共感覚、もしくは「まといのば」では気功共感覚と呼んでいます。
共感覚を鍛える本質的な方法は2つあり、ひとつは圧倒的なリラックス。なぜリラックスが共感覚を鍛えることになるかと言えば、これはシンプルです。そもそも緊張自体が、もしくはそのことによる筋肉の強張り自体が物理空間にフォーカスしていることになるからです。物理空間にフォーカスすれば、情報空間がおろそかになります(逆もまた真なりで、情報空間にフォーカスしすぎると、物理空間がおろそかになり、その究極のカタチはネトゲ廃神です)。
リラックスともう一つが、圧倒的な知識量と正確な理論の理解です。平たくはIQということになります。
この超情報場における超次元的な構造物を組み替えることを「書き換え」と呼び、その構造物をInternal Representationの訳語として内部表現と言い、その書き換えを内部表現書き換えと言います。
これはそもそも脳から脳への伝達、ホメオスタシスからホメオスタシスの伝達でしかありえず、テレパシーのように伝えます。それを非言語書き換えと言います。多くの人が言語で何かを伝達すると思っているので、その言語書き換えの対概念として非言語書き換えというのが出てきました。
ただ、実際は言語書き換えのときにも、非言語書き換えが後ろに控えています。この非言語部分をたとえばコンテクストと言ったりします。文脈があって意味が生じます。その意味で言葉に意味はなく、意味はコンテクストに埋め込まれています。
この構造物の別名はアルゴリズムです。もしくは超情報場におけるプログラム、もしくは計算機と考えても良いでしょう(そもそもが超情報場の振る舞いを近似したのがコンピューターであり、脳です)。
ですので、気功技術という概念そのものはプログラムとして動き出すわけです。そのプログラムをどう使うかは、意外と「実存は本質に先立つ」のです。
これは「神は数学者か?」の議論と似ていて(というか本質的に同じで)、何の役に立つか分からないような純粋数学が、あとの時代で一番役に立つことになるのです。
ですから、たったひとつの気功技術で良いので、それを愛し、駆使し、耽溺すれば、情報空間での概念操作に長けるのです。そのAという気功技術をあたかも万能に駆使することができるのです。
手に馴染んだ一つの武器で戦場を切り抜けるようなものです。
生兵法は大怪我のもとであり、多すぎる見知らぬ武器を引き連れての移動は、身を滅ぼすのです。
繰り返しになりますが、「その気功技術は何に使えますか?」と聞かれることがあります。
僕としては、
「その気功技術を何に使いたいですか?」と聞き返します。
そして、重要なのはどの気功技術か、ではなく「自分が何をしたいのか」「どこを目指したいのか」です。それが分かれば、技術は何でも良いのです。