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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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金塊の重みで海底に沈んでいった時、男が金塊を放さなかったのか、それとも金塊が男を放さなかったのか

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ブログで使いたいと思ったあの一節がどこにあったかを探すのに苦労することがあります。

カーネマンだと思ったらタレブだったり、聖書だと思ったらコーランだったりします。

この本と分かっていれば、Kindle(電子書籍)ならば全文検索をかけますが、かつては本を全部読み直すしか無いことも多々有りました。それはそれで素晴らしい体験です。

 

なぜ苦労して探すかと言えば、その一節が鍵となり情報空間の扉を開くからです。

ほとんどの情報というのは言語化を阻みます。

言語抽象度というのは決して高くないので、言葉で分かりやすく説明するというのは、駱駝が針の穴を通るほどに難しいのです。

だからこそ、先人が示してくれたその奇跡を引用することで、紹介したいと強く願うのです。

 

今朝、何かを考えていて、どうしてもあの一節を引きたいと思ったのですが、それがどこに書かれていたかが皆目見当がつかずに途方にくれていました。

 

記憶を引き出すならば、それはKindle(電子書籍)であったことは確実なので、最近読んだ本を片っ端から調べたのですが、なかなか見つからず、「おそらくこの本じゃないよねー」と思っていた本の冒頭にそれが見つかったときは喜ぶというよりは、あっけにとられました。

 

その一節がこちらです。

 

(引用開始)


先日カルフォルニアの沈没船を調べたところ、乗客のひとりが、九〇キロの金塊をくるんで腰に巻きつけ、その重みで船底に沈んでいた。はたしてーー男が金塊を放さなかったのか、それとも金塊が男を放さなかったのか

 

ーーージョン・ラスキン「この最後へ」

 

(マイケル・ルイス『マネー・ボール[完全版]』)(引用終了)

 

 

 

男が金塊を放さなかったのか、それとも金塊が男を放さなかったのか」という魅力的なフレーズをどうしても見つけたかったのです。

 

でも、まさかそれがマイケル・ルイスの「マネー・ボール」の冒頭とは、、、。

全く見当違いのところを延々と探していました(笑)。

 

「マネー・ボール」は野球をしている人であったら、確実に知っているでしょうし、映画好きの多くも知っていると思います。主演のブラッド・ピットが原作のファンで、どうしても映画化したくて苦労の末に映画化にこぎつけました。同じマイケル・ルイスの原作である「マネー・ショート」にもブラッド・ピットは出演しています。

 

 

その「マネー・ボール」の冒頭にこのラスキンの一節が引用されていました。

 

とは言え、いろいろ変な感じもあるので(特に引用著書の「この最後へ」は意味不明)、原典とは言わずとも、ラスキンの邦訳を探してみました。

 

「世界の名著」という中央公論社の素晴らしいシリーズの中にラスキンとモリスを取り上げた一冊がありました。第41巻です。

かつては家庭に百科事典を置くのがステータスであったように、この「世界の名著」的なシリーズものを置くのがステータスでした。

フリであっても知性に対してリスペクトの姿勢を示すのは大事だと僕は思っています。

(そう言えば、以前、「世界の名著」を全巻揃えた方が良いとセミナーなどで提言したことがあり、書店にはもちろん無いので、友人の古書店の店主を紹介したことがありました。その方を通じて購入されたメンバーもいました)。

 

『世界の名著』第41巻を紐解いてみると(いや紐で縛られているわけではないですが、慣用句です)、こんな風にありました。

(ちなみに、その一節を探すために、もちろん全編を読みました。おかげでラスキンの「わたくしがこれまで書いたもののうちの最上のもの、つまり最も真実で、最も正しく述べられ、そして最も世を益するものと信じている」(p.53)と言う素晴らしい論文を読むことができました)

 

(引用開始)

 

たとえば最近、カルフォルニアの船が難破したとき、乗客のひとりは二百ポンドの黄金をいれた帯を身体にしばりつけていたが、かれはのちにそれをつけたまま海底で発見された。さてここで、かれが海底に沈みつつあったとき、かれはその黄金を有していたのであろうか、それとも黄金がかれを有していたであろうか。

 

(引用終了)(p.124 ラスキン『この最後の者にも』 世界の名著41『ラスキン モリス』)

 

200ポンドは90.7kgです。ですから90キロの金塊というのは違和感はありません。

 

ほとんど意味はかわりませんが、1つだけ気にするとしたらラスキンの著書のタイトルが『この最後へ』となっていること。ここは『この最後の者にも』の方が良いでしょう。これについては後述します。

この文章の最後にラスキンによる注がついていました。

 

この「それとも黄金がかれを有していたであろうか。」の後にです。

 

その注にはこう書かれています。

ジョージ・ハーバートの詩と比較せよ、と。

 

(引用開始)

 

ジョージ・ハーバート『教会の玄関』The Church Proch第二八歌と比較せよ

 

(ジョージ・ハーバートは十七世紀の宗教詩人。ラスキンがふれているのはつぎの一節である。
"Wealth is the conjurer's devil,
Whom when he thinks he hath, the devil hath him.
Gold thou mayst safely touch; but if it stick.
Unto thy hands, it woundeth to the quick.”)

 

(引用終了)

(なお、stickは原文ママです)

 

比較せよと言われている第二十八歌をDeepLを使って訳すとこんな感じです(ちょっと変更しています)

富は魔術師の悪魔である。
彼が(悪魔を)手に入れたと思うとき、悪魔は彼を捕らえる。
黄金には安全に触れることが出来るが、もしそれが刺さったら。
汝の手に刺されば、それは否応なくあなたを傷つけるだろう。

 

 

ここにあるのは痛烈な皮肉というか、教訓です。

 

さてここで、かれが海底に沈みつつあったとき、かれはその黄金を有していたのであろうか、それとも黄金がかれを有していたであろうか。


とラスキンが書き、もしくはマイケル・ルイスが引用したように(それが邦訳されたように)

 

はたしてーー男が金塊を放さなかったのか、それとも金塊が男を放さなかったのか

 

という意味はハーバートの詩と比較することでくっきりしてきます。

 

彼が(悪魔=富を)手に入れたと思うとき、悪魔(富)は彼を捕らえる。

 

と。

 

ただあわてて付け加えるならば、ラスキンは富を悪魔とは見做していません。単に比較せよと注で述べているだけです。

 

ちなみに富についてのラスキンの定義は、「勇敢な人による価値あるものの所有」とされています。

 

それゆえに富というのは、「勇敢な人による価値あるものの所有」ということである。(ラスキンp.126、太字は原文のまま)

 

 

ちなみに、マイケル・ルイスの引用(の邦訳)と世界の名著での邦訳は、ほとんど意味はかわりませんが、1つだけ気にするとしたらラスキンの著書が「この最後へ」となっていることです。と先ほど書きました。

ただ、ここは世界の名著に倣って「この最後の者へ」の方が良いでしょう。

 

というのも、このタイトルは聖書からの引用だからです。

ぶどう園の喩えからの引用です。

 

自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。マタイ20:14

 

この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいという箇所の「この最後の者にも」がタイトルです。

(ぶどう園の喩えなど知らないという人も多いかもしれませんが、このぶどう園の喩えの最後の引用は「まといのば」でも繰り返し引きます。

 

このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろうマタイ20:16))

 

「この最後の者に」だけでは、聖書からの引用とは分からないではないかという反論もあるかもしれません。ニーチェの「この人を見よ」も聖書からの引用ですが、「そうとは限らないじゃないか」というような反論があるのと似ています。

 

*ピラトがイエスを指して「この人を見よ」と民衆に叫ぶシーン。

 

その反論に対する解説として、ラスキンの文章を引きます。

第四篇の最後に書かれているのです。

 

やがて時いたり、王国が開け、キリストのパンの賜物と平和の遺産が、「この最後の者にもなんじ同様」与えられるであろうその日まで。(ラスキンp.155)

 

この文章の引用の注として「マタイ福音書」第二〇章一四節。と明確に書かれています。

 

(そして結論から言えば、この「人道主義経済学」こそが、ホアキン・フェニックス版ジョーカーを最小限にする経済学だと思います)

 

ですから、「この最後へ」というのは「この最後の者にも」が相応しいかなと思います。

(では、なぜ「この最後へ」なのかと言えば、原作が「Unto This Last」だからでしょう)

 

この金塊の比喩を理解した上で、たとえばGoldをGoalにしてみたり、Goldを毒にしてみたりして横展開していくのも面白いと思います。

あなたが持っていると思っているものから、我々は魂を掴まれているのかもしれません。

ただ、それを分かっていて、それを抱えて死んでも良いと思えるのもまた素晴らしいことです。


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