解毒の物語が真に自分の物語だと感じたように、これは私のための情報であり、物語であると感じることは多々あります。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」は二重構造となっており、ファンタジーの世界とそしてそのファンタジーの世界の本を読むバスチアンの物語になっています。
この二重構造の境界線が溶けていくのが、物語の大きな肝です。
バスチアンは果たしてファンタジエン(物語の中の世界)の中に入っていきます。
それもこのファンタジーの世界を救うヒーローとして。
意識という傍観者が、自分もまた冒険の中に囚われていることに気付くのです。
我々はフィクションを読んでいるとき、観ているときに、それはフィクションだと認識していると思っています。意識しています。しかし、ご承知のように無意識にとっては、フィクションはフィクションではなくリアルです。
ですから、手に汗を握るのです。主人公の苦悩に共に苦しみ、主人公の憤りに共に憤るのです。
仲間の死に、深い喪失感を覚えます。
自分の中にも2つの人格があると仮に仮定します(←上を見上げていますね)。
意識君と無意識君です。
意識君はこの世の(少なくとも自分の)王様だと感じていて、自分が全てをコントロールしている気になっています。無意識は黙々と命令に従っています。実務は無意識くんがやっています。
意識君にとっては、フィクションはフィクションです。
無意識君にとっては、フィクションはリアルです。
(どちらがリアルなのでしょう?w)
意識君にとって、「はてしない物語」は世界が歪むような体験です。
僕等が知るべきは、自分を本当に支配しているのは無意識であるということです。
*『ドクター・ストレンジ マルチバースオブマッドネス』予告第2弾
毎晩、
同じ夢を観る
そして 本当の悪夢が始まる。
私はやるべきことをした。
この世界を守るために
スーザン・フォワードの「毒になる親」を読んでみて、いや買ってみただけでも、「これは自分についての本だ」と直感し、目次をパラッと観ただけで、その直感が確信に変わった人も多いでしょう。
「自分についての本」だからこそ、読めないのです。
読んでしまったら、永遠に自分が変わることが分かっているからです。
ネバーエンディング・ストーリー(はてしない物語)のバスチアンのようなものです。
一度、物語が始まってしまったら、読むのを止めたとしても、本を閉じたとしても、物語は脳内で続きます。脳内で続くということは、世界が変容し続けるということです。マルチバースの扉は開いてしまったのです(^o^)。
「はてしない物語」に関しては、是非この単行本の装丁を見て欲しいと思います!
意識はどこまでも傍観者なので、全てが他人事なのです。
なぜなら自分が手を下していないことを知っているからです。
無意識にとっては、全ては自分事なのです。
この無意識の感触を掴むことができることが、内部表現書き換えの極意です。
「無意識の感触を意識することなどできない、なぜならそれは無意識だから」という反論はもちろん想定されますが、その質問の依って立つパラダイムそのものが古いのです。
意識と無意識、意識と潜在意識、そして前意識が分かれていたのは、フロイトたちの時代です。創始者の時代です。
いまはそのように考えてはいません。
いまの定義は、意識しているところが意識、意識していないところが無意識です。ですから、あなたがいまお尻(大殿筋)を意識したとしたら、大殿筋が無意識から意識に上がったのです。
意識はスポットライトのようなもの。無意識を照らすことで、照らされた部分が意識となるのです。ほかは闇の中です。
ですので、繰り返しますが、この無意識の感触を掴むことが、内部表現書き換えの極意です。
今週末の「普通革命」セミナーを是非お楽しみに!!!!