ゲーデルが述語論理の完全性を証明し、クリプキが様相論理の完全性を証明したのはご存知のとおりですが、もし、気功にSyntaxとSemanticが仮にあるするとしたら、Syntaxは単なる記号操作に近い身体操作、もしくは概念操作であり、Semanticはその意味なり解釈なり、社会的機能ということになるのでしょうか?
気功を導入するというのは、気功師にとってはキリスト教における洗礼と似て、非常に稠密な瞬間です。一種のパラダイムシフトをその場で起こす必要があります。宗教は伝統なりコミュニティがお膳立てしてくれる部分がありますが、気功の場合はその文脈情報は気功師自身が自力で創りあげる必要があります。
「まといのば」ではある程度の分量があるブログ記事と受講生一人一人の体験が分厚い文脈情報として機能していますが、それでも初回の「気功の導入」というのは大変に緊張を強いられる作業です。
「まといのば」の受講生の多くはヒーラーでありヒーリングを教える教師ですので、それぞれが苦心していると思います。
従来は「気の球」をスタートラインにしていました。手をこすり手を暖めて重ねて、手の中に小さな空気のボールを作るところが気功のスタートでした。
空気のボールをこねている中で、途中で「空気」から「気の球」へ自然と移動します。
自然に移動すると言っても、実際は不連続です。
気功の無い世界から、気功のある世界へと移動するタイミングというのは、実際は教師がデザインして強制的に起こします。
これが教師の腕の見せ所ではあります。
ただ、その不連続な局面をなるべくなだらかにしてギャップを小さくすると失敗するリスクは下がります。
そこで最近では『「手を重ねる」ことから(気功を)始めよう』と伝えています。
逆に言えば、そこに不連続点を持ってくるということです。気功が無い世界から気功がある世界への境目を「手を重ねる」という動作の中に持ってくるということです。
気功というと手をヒラヒラさせたり、念をこめてがんばるというイメージがありますが、実際は「思考」の一形態でしかありません。特殊な思考かと言えば特殊ですが、特殊ではないと言えば特殊ではありません。すなわちアルファ波がどうたらという話しではありませんし、伝統も無関係、特殊な思念ということとも無関係です。関係がないというのは言いすぎですが、必要条件ではないということです。
で、なぜ「手を重ねる」が気功になるのでしょう。
これは「気功」の定義そのものと関わります。
これまで(の「まといのば」のやり方)通り気功の定義を「共感覚による内部表現書き換え」とします。この定義のベースにはもちろん認知科学と分析哲学存在論(Latice based ontology)があります。
これらを踏まえて「まといのば」では「気功」という公理系が存在するとしたら、その公理は非常に非形式的ながら「意識に上げること」と考えます。この「意識に上げる」ことを第一公準としてすべてがそれにぶらさがる(サブクラス)と考えると非常に整理しやすいのではないかと考えています。
すなわち、「気功」とは「意識に上げる」ことであり、そのサブクラスとして「手を重ねる」「気の球」「気を出す」の3つがぶら下がっているという図です。
そして、その3つの下に少なくとも「まといのば」で公開している技術はすべてぶら下がっていると考えて良いと思います。いわゆるそのようなピラミッド型のツリー構造が「気功」の公理系とかんがえると、学習が非常に早く進むと考えます。
気功の公理系側で言えば、「意識に上げる」という公理の下に「手を重ねる」「気の球」「気を出す」があるとしたら、それに対応するSemantics(セマンティクス、意味論)は何になるのでしょう。
それぞれざっくりと見て行きましょう。
すると、「手を重ねる」は「無意識の世界を意識に上げる」に対応します。もちろんこれは第一公理の「意識に上げる」とも対応します。また「気の球」は情報操作に対応します。観念操作や概念操作と考えても構いません。もしくは情報に対する共感覚とも言えます。形も重さも色も匂いもない存在をリアルに感じ、物理的存在かのように扱うのですから、一種の共感覚です。最後に「気を出す」はエントロピーに対応します。伝統的な気功で言えば、「秘伝功」です。いわゆる「無限の気」です。
この3つのサブクラスの下に、様々な気功技術がぶらさがります。1月以降の「はじめての気功」講座ではこの体系を維持したまま全貌を明らかにしていきたいと思います。
「意識に上げる」というのは我々はいつでもやっています(やっていないときを除いて)。
それをフランスの哲学者はラテン語でCogito ergo sumと言いました。「我有り」となるかはともかくとして、「我思う」ことは可能です。しかしこれではリアリティをもったワークとしての実在感がありません。ですので、手を重ねることをワークのはじめにおきます。
「手を重ねる」ことで手の暖かさが意識に上がります。手の柔らかさが意識に上がり、手のサイズが意識に上がります。暖かさや柔らかさの違い、皮膚の感触が意識に上がります。神経生理学を信じるならば、我々の感覚器はいつでも情報を受け取っています。それはイオンによるbitとして脳に流れ込みます。ただRAS(reticular activating system 網様体賦活系)の検閲を通ったものが意識に上がります。ですので、我々の感覚器だけではなくRASを通過したものしか意識に上がりません。そしてこの意識に上るということが重要であり、意識に上げることで我々はそこに介入する支配力を手にします。操作可能ということです。これが気功の本質的なカラクリです。
ここで我々はぼんやりと量子論における観測問題を思い出します。ハイゼンベルクを持ち出すまでもなく、我々は観測によって対象を変えてしまうことを知っています(もちろん「変える」というのは古典的な言い方ですが)。
いずれにせよ、手を重ね、その重ねた手を意識に上げることが気功の始まりであるということを知り、そしてその上で、手を重ねたらその人は気功師としての華々しいスタートを切ったということです。
↧
手を重ねることから始めよう!
↧