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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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ああ!知っているということは、なんという恐ろしいことであろうかーー知っても何の益もないときには。

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ギリシャ悲劇の代表作とも言えるソポクレスの「オイディプス王」の冒頭のセリフですね。

 

ああ!知っているということは、なんという恐ろしいことであろうかーー知っても何の益もないときには。

 

悲劇と言えば、オイディプス王、フロイトと言えばエディプスコンプレックスです。

 

 

ちなみに、なぜフロイト先生がオイディプス王の名前にちなんで病名をつけたかと言えば、オイディプス王が父を殺し、母と交わったからです。そして男の子はそういう欲望を潜在的に持っている、と(「潜在的に」と言われたら何でもありな気がしますね〜。「牛と交わり、猫になりたいとお前は潜在的に思っている」などとフロイト先生に言われたら否定するのが難しいですw「潜在的に」ですからね。悪魔の証明ですね)

 

まあ、それはともかくいつ読んでも不謹慎ながら楽しいのがソポクレスのオイディプス王です。ギリシャ悲劇の最高傑作ですね(言い過ぎかな)。

基本的には推理サスペンスで謎解きをしながら、強烈な結末に向かって、疾走していきます。

カタルシス(浄化)ですね。

「全俺が泣いた」となること必須ですので、まだ読んでいないという人はむしろ羨ましいです。これからあれをはじめて味わえるなんてw

 

で、オイディプス王の狂言回しというか、解説者たる存在が盲目の預言者のテイレシアスです。

 

 

彼が王に呼ばれて宮殿にやってきて、そして最初に言ったのがこのセリフです。

なぜ呼ばれたかと言えば、犯人探しのためです。何の罪かと言えば、殺人。被害者は先王です。

先王を殺した犯人が野放しにされているから、国が病んでいるので、犯人探しをオイディプス王を始めたのです。

で、きっと預言者なら犯人を見つけてくれるだろうと、テイレシアスを呼びました。

 

テイレシアスは目が視えないけれども、ずっと先は見通せていました。

 

そしてもちろんのこと誰が先王殺しの犯人かは知っていました。いや、宮殿に来た瞬間にわかったのでしょう(というわけで、刑事コロンボタイプの推理ミステリーなのです。犯人はさきに分かっています)。

 

 

で、テイレシアスは第一声でこういいます。

 

ああ!知っているということは、なんという恐ろしいことであろうかーー知っても何の益もないときには。

 

と嘆きます。そして、続けて、

 

かようなことは、よく心得ていたわしなのに、うっかり忘れてしまっていた。さもなくして、どうしてここへ来たりしよう。

 

と懺悔します。

 

「うっかり忘れてしまっていた」というのが良いですね。

「うっかり」ってとても良い味わいですw

 

あまり関係ありませんが、「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」と言わなかったマリー・アントワネットの言葉で、

 

忘れてしまったこと以外で、何も新しいことはないわ。

 

を思い出します。

 

 

 

覚えていれば、新しいことはないのです。

テイレシアスもそうだったのです。

 

「あーーうっかり忘れていたーーーー」と思ったのでしょうw

 

そしてこういうことはよくあることだから、厄介な占いは拒否していたのに、ついのこのこと出てきてしまった自分を恨めしく思ってしまう、、、、

 

まあ、でもこのテイレシアスとオイディプス王のやりとりはこの物語の欠かせないポイントです。

王様に対してひるまないのは、自分は王に仕えているのではなく、神(アポロン)に仕えているという自負があるからです。

 

またまた余談ながら、「忘れてしまったこと以外で、何も新しいことはないわ」というマリー・アントワネットの言葉とともに思い出すのは、お馴染みの旧約聖書の伝道の書ですね。

 

先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。伝道の書第1章9-10

 

まあ、iPhoneを「見よ、これは新しいものだ」と言っても良い気はしますけど。

 

 

でもこの感覚はとても重要だと思っています。

どの抽象度で観るかによりますが、ある程度の抽象度で考えれば、たしかに「先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない」のです。

 

で、ようやく本題に戻ります!

 

テイレシアスではないですが、「知っても何の益もないときには、知っているということは、なんという恐ろしいことであろうか」と僕も思います、というのが今回の主題です。

 

我々は知的好奇心が旺盛ですし、知りたいという欲望は強いものです。

でも「知っても何の益もないときには」意味がないのです。というか、むしろ「なんという恐ろしいこと」になるのです。

 

ちょっと分かりにくいので、具体的な話をすれば、たとえばニュースのほとんどは「知っても何の益もない」ですし、雑誌もテレビもインターネットで流れる速報性の高いものもほとんどはそうです(まさかテレビをいまだに見ている人は多くないと思いますが)。

(新しいものはないのに、Newsとは、、、と)

 

もちろん「テレビを見るのをやめましょう」とか「YouTubeを見まくるのをやめましょう」とか、言いたいわけではありません。

 

もっと長期的に見て明らかに意味のある投資で、短期的にも栄養豊富で美味しくて楽しい情報を摂取したらどうでしょう、ということです。

 

「それって何ですか?」と聞かれると、答えにはつまります。それはその人のゴール次第だからです。

 

ただ古典の多くは長期的にも短期的にも美味しいのです(オイディプス王もその1つですね)。

 

 

たとえばこんな経験はないでしょうか?

 

引っ越しの折などに、古い新聞をタンスの底に見つけて、つい読んでしまったことなどは?

その古新聞に書かれた情報や書き方に驚かされることがあります。論調は変わらず、いまから見れば大したことでないことに、この世の終わりのよに大騒ぎしている。違和感というか、その感触が大事です。こんな情報を頭に入れておいても、役に立たないのではないかと思うことです(職業上、新聞を読まなくてはいけない場合は、まさに「速読」で読むことです)。

 

なぜ「なんという恐ろしいことであろうか」となるかと言えば、知ってしまったがゆえに消えていくチャンスや、増えるスコトーマが多いからです。

 

スマホ以降、テキスト情報に触れる人は多くなったと思いますが、それはフラグメントなもので、そして情動を喚起するものばかりです。そうすると、あまりにその情動を喚起する刺激的な情報に暴露され続けると、情動が麻痺してきて、そしてもっと強い刺激を求めるようになります。一種の「抵抗性」が生じるのです(この抵抗性は平たく言えば「慣れ」です)。

慣れるだけなら、ともかくより強い刹那的な刺激を脳は求め続け(それが報酬なので)、そして前頭前皮質はゆっくりと壊れていきます。

 

コカインの5倍の中毒性(毒性も似たようなものだと思いますが。そして即効性よりも長期に渡ってジワジワするだけで)と言われるSuagarと似ています。厳密にはSuagrの抵抗性というよりは(血糖値の問題でもなく)、インスリン抵抗性ですが。悪循環に入ります。

慣れるから、もっとインスリンが欲しくなり、インスリンに暴露されるから、インスリン抵抗性は強まり、、、と悪循環です。

 

 

同様に情報もまた、強い刹那的で即物的で情動を換気するものばかり摂取していると、悪循環のあげくに、前頭前皮質がゆっくりと壊れていきます(すぐに壊れるならば、禁止されるのですが。ゆっくりとなると、人間は認知が追いつかないのです。行動経済学ではないですが、我々の視野はきわめて狭いので)。

 

 

 

そんなわけで、オイディプス王の文脈とは全く関係なく、

 

ああ!知っているということは、なんという恐ろしいことであろうかーー知っても何の益もないときには。

 

と思います。

 

知ることで益もあり、長期的に役に立ち、その上、知っている過程が楽しくて仕方ないものだけを学び続けましょう!!

 


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