「瞑想のやり方を知りたいです!!」と言われることが多くなってきました!!
瞑想と難しく考えずに、単なる脳のトリセツ、心のトリセツと思えば良いことです。
たとえば、ストレッチをするときに、やみくもにやる前に、どんな風に身体を動かすかを一旦立ち止まって考えます。
イメージします。
そのときに、とても身体が敏感だと、股関節なりハムストリングスなりが熱くなるのを感じます。チリチリとした痛みが起きたり、抜ける感じの爽快感が起きたりします。
そして、そっとそのポジションに移動します(開脚しようと思って、脚を開くのではなく、そっとその形へ移動するイメージです)。
その身体の状態、そのストレッチできている世界へ移動するイメージです。
多くの人はやみくもにストレッチを始めてしまいますが、一度立ち止まるって、イメージするのが大事です。
ビジュアライゼーションですね。
そのときにできる限り、克明にリアルにイメージします。
できれば肉体の中に入り、筋肉の中にも入るイメージです。
そうすると身体に変化が起こります。
その変化にもとても敏感になります。
すると、ビジュアライゼーションとフィードバックがループを描き出します。
イメージすると身体が反応し、その身体の変化でイメージもアップデートされます。
イメージというのは最初は自分で想像しているものです。
最初はたしかに勝手な想像でしかありません。
しかし、物理的現実世界(この場合は肉体)と絡んだ瞬間に、そのイメージは生き生きとしてきます。ループができる感じです。
そうすると、イメージが実体性を持ちます。
イメージが現実とリンクすると、イメージを変化させることで、現実が変わるようになるのです。
逆に現実の変化をフィードバックして、イメージも変容するのです。
これは楽しい経験です。
これが本来のビジュアライゼーションです。
難しそうですが、これは慣れれば簡単ですし、何より楽しいです。ですので、まずは小さな小さなところから練習することです。
練習するというより、遊んでみるという感じです。
我々はどうしても、機械論的で唯物論的な世界観に慣れすぎています。
これは良い悪いではなく、単なる歴史的なものです。
我々は歴史に強く影響を受けています。自分の考えだと思っていても、それは歴史を背景とした社会が要請しているだけです。
ですので、機械論的で唯物論的な世界観から少し距離を取って、イメージと現実の融合を楽しむようにしてください。
融合というよりは、ループですね。
フィードバックループができます。
イメージによって、肉体がわずかに変化し、その変化によってイメージ自体も変化し、またそのイメージを変化させることで、肉体が変わります。
高僧とされる人たちが日々やっているのは、おそらくそんな世界です。そしてそれはとても楽しいのです。楽しいからつらそうな修行を黙々とやっています。なぜ黙々とやっているかと言えば、その楽しみはなかなかシェアできないからです。
機械論的で唯物論的な世界の住人はもっと即物的なものを喜ぶからです(それはそれで悪いことではありませんが)。
たとえて言えば、テレビゲームで盛り上がるようなものです(テレビゲームという言い方が死語かもしれませんが)。テレビゲームをしない人とっては、なぜゲーム好きの人々がそんなにずっと苦行をしているのかわかりません。モニターとコントローラーの前でひたすらにウンウンがんばっている理由がわからないのです。
一喜一憂している理由がわからないのです。
具体的に説明されたところで、「いやいや、そのゲーム空間のアイテムは単なる電子的な情報で、物理的に鎧やソードがもらえるわけじゃないのに、、、、」ってなります。
でも、同じゲームにハマっている人同士はいくらでも盛り上がれます。
瞑想も似ています。
ちなみに、イメージと肉体(現実世界)のフィードバックループというのはとても難しそうに聞こえます。
気功師が、さらさらっと手を動かして、病を治すのに似ていて、おそるべきパワーや超絶技巧かもしくはウソとか暗示にも感じます。
でも、きちんと考えれば、そんなに難しいことではありません。
イメージは肉体を容易に変化させます。
たとえば、レモンを思い出して、そのレモンをまな板の上に追いて、レモンをスパッと切ってみましょう。そしてかぶりついてみましょう!!
身体の感覚が敏感ならば、唾液腺から唾液が吹き出すのを感じます。
(ちなみに唾液腺だけではなく、消化管というのはイメージに対して反応します。それは胃も腸もです)
このとき、「いや、俺は反応しないよ」という人は、ビジュアライゼーションが下手というよりは(それもあるかもしれませんが)、実は身体に敏感でないだけということがあります。
身体を敏感にすると、ビジュアライゼーションや瞑想と言ったものは上手になります。
「これって、自己暗示ですよね」と言う人もいるかもしれません。「気功師のように、相手を書き換えられないですよね」と。
でも、これも丁寧に考えれば、間違いだと分かります。
自分だけではなく、相手も書き換えられます。
このレモンのスクリプトを誰かに聞かせれば、その人の唾液腺をコントロールできるのです。
これが「共感覚による内部表現の書き換え」なのです。
これらはそんなに難しいことではありません。
ピアノの鍵盤を指で押すことは難しくないのと同じです。
「ピアノで音を奏でるなんて信じられない」という人はいないでしょう。
同じく瞑想やビジュアライゼーションもそのカラクリはシンプルなのです。
レモンは物理的に実在しないのに、唾液腺を刺激して、存在しない酸を薄めようとするのです。
ユニコーンは存在するのです(世界は存在しませんがw)。
このとき我々は情報空間に浮かぶ情報存在(イメージ)を想定し、それが物理的現実世界に影響を及ぼすことを認めているのです。そしてそれを追証することも可能です(レモンを想起して、唾液が出ることで)。
これは非常に楽しい経験です。
レモンからスタートして、ストレッチで楽しんでいけば、気付いたら相当なレベルに達していたりします。
そのときには単にハマっているだけです。ハマっているうちに、相当なレベルまでクリアしているのです。
テレビゲームと同じです。
ただテレビゲームと同じで、それはそのテレビゲームをする人にしかわからない喜びであり、楽しみなのです。
ですから、当然ながら閉じた系になります。
なぜ閉じるかと言えば、言っても共感されず、わかってもらえないからです。
理解されないところに、何かを言っても、無駄に虚空にこだまするだけです。
ですから仲間同士で閉じるのです。
秘密結社や密教的という言い方の方がわかりやすいかもしれませんが、本質は同じです。
ただ秘密結社や密教集団の中心には「教え」があります(人ではなく)。
(イエスのカリスマで集めたのではなく、いや、それもありますが、いつも中心にはユダヤ教の聖典に対する新しい理解がありました。その教えが吸引力です)
そして瞑想は、比喩として以上に、テレビゲームに似ています(多分)。
ただ、大きな違いは、テレビゲームと違い、現実世界も変容させることです。
平たく言えば、テレビゲームで獲得したアイテムは現実世界でも物理的なものとしてゲットできることがあるのです。
ですので、多くの瞑想の実践者は、唯物論的な結果を示して、瞑想に誘ったりしますw
でも、即物的な喜びにフォーカスがあると、どうしても瞑想的な喜びがスコトーマになります。
そして、うまくいかないことが多いのです(うまくシフトできることもあります)。
いずれにせよ、瞑想もビジュアライゼーションも気功も、基本はシンプルです。
シンプルですが、それは鍵盤を押せば音が出ると同じシンプルさです。
ショパンを弾きこなしたいと思ったら、その押せば音が出るというシンプルさからはじめて、高みへ登っていかなければなりません。
でも山の高さに絶望するのではなく、一歩一歩歩くことに喜びを見出しましょう。
それは現代社会においても、猛烈に楽しく気持ちよく喜びに満ちていることです。
なぜなら、華やかな全体像よりも、あまり重要でない小さなものを作ることのほうが楽しかったからだ。(ニーチェ)
しかし、その楽しさや喜びはほとんどの人が理解しないことです(ですから「隠れて生きよ」ですね)。
誰も知らないテレビゲームにひとりで耽溺しているのと同じだからです(でも広い世界にはたくさんの仲間がいます)。
もちろん「誰も私のことは理解しない」とか言わないで、社会に対して仮の姿で出現しましょう。アバターのようにあらわれ、そして社会的に受け入れられる在り方(機能の果たし方)を意図しましょう。そうすれば、どちらでも楽しめます(というか、人間は政治的動物ですので、共同体は必要です。周りの人とは仲良くしましょう)。
そうすれば狂人と思われることなく、社会生活も瞑想生活(気功生活?)も楽しめます!
いや、むしろこっそりとやっているゲームのおかげで(その即物的な結果によって)、むしろ周りから重宝され、リスペクトされることも可能です!