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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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固有名を用いるとき、わたしたちは、いわば現実のなかに釣り針を垂らすのです(マルクス・ガブリエル)

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名前に何があると言ふの?
薔薇の花を別の名前で呼んでみても甘い香りは失せはしない。


と悲劇のヒロインであるジュリエットは言いました。

 

c.f.「名前に何があると言ふの? 薔薇の花を別の名前で呼んでみても甘い香りは失せはしない」 2017-11-06

 

良いですね〜

薔薇の花を別の名前で呼んでみても甘い香りは失せはしない

たしかに一見すると、そうだと思えます、、、、しかし、、

 

ロミオとジュリエットの2人は自分たちの苗字ゆえに、そして両家の諍(いさか)いゆえに、結ばれることができない運命でした。

だからこそ、名を憎むのは分かります。

 

しかし、「名前に何があると言ふの?」と言われても、名前にはいろいろなものがありました。

特にその甘い香りをふりまくその植物はその名によって縛られているのです。

(ここらへんは最近の行動経済学の露骨な研究が面白いです。「名」にはいろいろあるのです。欧米にもドキュンネームはあります。そして、それがその子の未来を狭める結果になることも)

たしかに名前は「手でもない、足でもない、腕でも顔でもない」のですが、しかしその全てなのです。

手や足や腕や顔よりもはるかに重要です。

 

 

マルクス・ガブリエルは我々と我々の身体を構成する素粒子は同じではないと言います。

なぜなら、もし同じだとしたら、我々は生まれる前から(素粒子として)存在し、生まれたあとも(素粒子として)存在することになるから、と。

 

 

しかし、名は縛るのです。
 

クリプキは名指された名前を「諸世界にまたがる同一性」と呼ばれる概念と言いました。

 

我々はもっと文学的に小説における安倍晴明の言葉で理解します。

(下により詳細な全文を載せます。月をどうやってギフトにするかまで書かれています)

(これは「目に見える世界はすべて自分のもの」という理解されづらい考え方を綺麗に美しく示しています)

 

c.f.膨れ上がった物は中が空である〜在るのは無いものだけ(マクベス)〜名とは咒 2017-04-10

 

(引用開始)

「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」

「ーーーーー」

「ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのは、名だぞ」

「ーーーーー」

「この世に名付けられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」

「難しいことを言う」

「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになるーー」
(引用終了)

 

非常に明快な論理構造です。

 

呪とは、ものを縛ること  呪 → 縛ること

ものの根本的な有り様を縛るのは名 縛ること→名

 

呪とは縛ること、縛ることとは「名」と言った後に、

その逆について語ります。

 

否定→否定の構造です。

 

名付けられるものあるとすれば、それは何ものでもない、と。存在しないと。

 

¬名付け → ¬存在

 

ですね。

 

そして具体例に入り、それぞれの名前が呪いであると言います。呪いとは縛ることです。

 

 

どれほど縛るかと言えば、我々がここにいる世界だけではなく、諸世界にまたがって縛るのです(「諸世界にまたがる同一性」)。我々の現実世界だけではなく、可能性でしかない諸世界にまたがって縛るのです。

 

 

我々はこれを深く正確に理解していれば、ツールとして使うことができます。

 

僕自身は諸世界が球体で目の前に浮かんでいて、それを針が貫くイメージが浮かびます。

団子の串です。

団子が諸世界、串が名指しです。

 

 

マルクスガブリエルは釣り針と言いました。

 

固有名を用いるとき、わたしたちは、いわば現実のなかに釣り針を垂らすのです。(マルクス・ガブリエル)

 

たしかに、僕自身も内部表現書き換えのときは釣り竿を垂らすと表現します(しかし、これも昔好きだった社会学者がよく使っていたメタファーであったことを今思い出しました)。大量の釣り竿を一気に放り投げて、反応があったものからリールを巻いていきます。

 

 

名指しが重要であることが別れば、「私ってこういう人なの」的な謙遜をただの「言葉」というわけにはいきません。

 

それは可能性世界に広がって、自分自身を縛るからです。

 

それが分かれば、セルフトークについても、アファメーションについても見方が変わります。

アファメーションとは、アファームする作業であり、願望を口にするのとは違います。

諸世界に渡って、自分の在り方を確認する作業です。名を名乗るのと同じです。

それを「こうあってほしい(いまはそうではない)」だと思ってするならば、その状態が増幅するだけです。

そうではない自分、理想にふさわしくない自分だとアファメーションしていることになるからです。

セルフトークも同様です。

 

とは言え、口に出る言葉というのは、情報空間のとある情報場のひとつの写像です。

影をいじっても本体は動きません。

 

まずは本体をいじりにいきましょう。

それを内部表現書き換えと言いますし、情報の操作です。

そのときに、釣り針となり、団子の串となるのが、○○○です。

 

それについて、陰陽師スクールではがっつりと学びます!!

 

【書籍紹介】

 

 

 

 

 

 

それぞれ寺子屋を開講していますので、寺子屋で学びたい方は是非!

 

 

まずはマルクス・ガブリエル先生がクリプキに言及しているところです。

クリプキをまともな哲学者が言及している文章自体が希少なのでは(^o^)

非常に味わい深いです。

 

(引用開始)

唯物論的一元論が主張する全体の見渡しにたいする、もうひとつの比較的わかりやすい議論は、アメリカの論理学者・哲学者ソール・アーロン・クリプキに遡るものです。クリプキは、その議論を『名指しと必然性』で講義していました。それはとてもシンプルな事実の考察に基づいています。たとえば「マーガレット・サッチャー」のような固有名は、ひとりの人物を指示します。わたしたが「マーガレット・サッチャーはかつてイギリスの首相だった」と発言するとき、この発言によってわたしは、かつてのイギリスの首相だった、あのマーガレット・サッチャーを指しています。クリプキの言葉に基づいて、このような事態を「命名儀式(baptism)」と呼びましょう。命名儀式において、ある固有名が、ある特定の人物に結びつけられるわけです。誰かから「マーガレット・サッチャーはまだ生きているか」と問われたら、わたしは、彼女は二〇一三年に亡くなったと言うでしょう。

 では、同じマーガレット・サッチャーという名をもち、また存命中の別の人物がいるとしたら、どうでしょうか。この場合、「マーガレット・サッチャーは二〇一三年に亡くなった」というわたしの主張は間違っていることになるのでしょうか。いや、おそらくは間違いにはならないでしょう。そのように主張するなかでわたしが名指しているのは、かつてイギリスの首相だった、あのマーガレット・サッチャーだからです。クリプキの考えによれば、わたしが命名儀式において名指す人物は、その名指しによって「固定的に指示」されます。つまり命名儀式において名指されることによって、この人物が、ほかのすべての人物(どんな名をもっていようとも)のなかから特別に選び出されるわけです。かつてイギリスの首相だったマーガレット・サッチャーを、こうしていったん命名儀式において名指ししたら、それ以後は、この名を用いることでーーー望むか否かにかかわらずーーーいつでも当の命名儀式の対象を指すことになり、当の対象の運命を追跡することもできるようになります。クリプキの言い方によれば「固定指示詞[rigid designator]」は、すべての可能世界において同じ対象を指示する。とはつまり、もはやマーガレット・サッチャーが現在の経済状況を体験することはないにもかかわらず、わたしは「マーガレット・サッチャーだったら現在の経済状況にたいして何をしただろうか」と自問することができる、ということです。ひとつの可能世界を思い描き、そのなかにマーガレット・サッチャーを置き入れて、彼女だったらしたかもしれないことを想像することができるわけです。命名儀式において、マーガレット・サッチャーは、いわば一回きりのこととして、ひとつの固定指示詞に結びつけられます。「マーガレット・サッチャー」という固有名の釣り針にかかって逃げられなくなるわけです。固有名を用いるとき、わたしたちは、いわば現実のなかに釣り針を垂らすのです。かくしてわたしたちが釣り上げる対象は、たとえ当の対象についてわたしたちが間違った表象を抱いているのだとしても、あるいはわたしたちとしては本当は別の対象を釣り上げたかったのだとしても(たとえばジゼル・ブンチェンやブラッド・ピットなどを)、わたしたちが垂らした釣り針にかかって、もはや逃げることができません。(引用終了)(43% マルクスガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』)

 

 

 

続けて引用します!

 

(引用再開)

 以上のことからともかくもわかるのは、マーガレット・サッチャーの論理的同一性は、彼女の物質的同一性とはほとんど関係がないということです。わたしたちはマーガレット・サッチャーがもはや物質的同一性をもっていないにもかかわらず、三〇年前と同じく彼女について語ることができます。わたしたちの誰についても事態は同じです。昨晩、わたしが鯛ではなくラインラント風ザウアーブラーテンを食べていたら、今日のわたしを構成する素粒子は少し違っただろうと思いますが、それでもわたしが同じマルクス・ガブリエルであることに違いはなかったことでしょう。

 それに、クリプキの議論にパトナムが付け加えて言っているように、わたしが、わたしを構成している素粒子に等しいということは、どのみちありえません。もし素粒子に等しいのであれば、わたしは生まれる以前からーー今とは違った仕方で宇宙のなかに散乱していたにしてもーー存在していたことになってしまいます。今現在わたしを構成している素粒子は、わたしが存在する以前にも、すでにーー今現在とは違ったものを構成することでーーー存在していたはずだかです。というわけで、もし素粒子に等しいのであれば、わたしは生まれる以前から存在していたことになってしまいます。したがって、わたしたちは自らの身体と論理的に等しいわけではありません。もちろんだからといって、わたしたちは身体なしで存在することができるということではありません。クリプキとパトナムの議論が明らかにしているのは、わたしたちが素粒子と論理的に等しいとは言えないということ、それゆえ存在論的に宇宙には還元できない対象が少なからず存在するということにほかなりません。唯物論的一元論が間違っているのは、当の対象の物質的な実在性から厳密に区別されなければならないもの(たとえば人格としてのわたしたち自身)が、少なからず存在するからなのです。(引用終了)(同43%)

 

そして、夢枕獏さんの小説「安倍晴明」からの引用です!

晴明と雅博の関係はまるでホームズとワトソンのようで、雅博の存在によって、晴明の考えが謎解きされていきます。

譬えて言えば、ゲーテとエッカーマン(『ゲーテとの対話』)であり、ソクラテスとプラトンも同様です。

 

というわけで、我々のお気に入りの「咒とは名」のくだりですね。少し長めに引用します!

かなり趣深いです。

 

(引用開始)

女が退出した。

それを合図のように、雅博が話をもどす。

「さっきの続きだ。呪のことについてだった」

「さあてーー」

清明、酒を飲みながら声を出した。

「もったいぶるな」

「たとえばだ。この世で一番短い呪とは何だろうな」

「一番短い呪?」

わずかに考えて、

「おれに考えさせるなよ、清明。教えてくれ」

「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ」

「名?」

「うん」

清明がうなずいた。

「おまえの清明とか、おれの博雅とかの名か」

「そうだ。山とか、海とか、樹とか、草とか、虫とか、そういう名も呪のひとつだな」

「わからぬ」

「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」

「ーーー」

「ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのいは、名だぞ」

「ーーー」

「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」

「むずかしいことを言う」

「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは清明という呪をかけられている人ということになるーー」

 しかし、まだ博雅は納得のいかぬ顔をしている。

「おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのかーー」

「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」

「博雅はおれだ。博雅がいなくなれば、おれもいなくなるのではないのか」

肯定するでも否定するでもなく、清明は小さく首を振った。

「眼に見えぬものがある。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」(引用中断)

 

長くなるので、ここで一旦中断します。

 

後半は呪によって、月すらも惚れた女にくれてやる方法ですw

 

(引用再開)

肯定するでも否定するでもなく、清明は小さく首を振った。

「眼に見えぬものがある。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」

「ほう」

「男が女を愛(いと)しいと想う。女が男を愛しいと想う。その気持に名をつけて呪(しば)れば恋ーー」

「ほほう」

うなずいても、しかし、まだ博雅にはわからぬ様子である。

「しかし、恋と名をつけぬでも、男は女を愛しいと想い、女は男を愛しいと想うだろうーー¥

博雅は言った。

「あたりまえではないかーー」

清明はあっさりと答えて、

「それとこれとは別のことだ」

酒を口に運んだ。

「なおわからぬ」

「ならば言い方を変えようか」

「うむ」

「庭を見よ」

清明が横手の庭を指差した。

あの、藤の木のある庭である。

「藤の木があるだろう」

「あるな」

「おれは、あれに、みつむしと名をつけた」

「名を?」

「呪をかけたということだ」

「だからどうしたーー」

「けなげにもおれが帰るのを待っていた」

「なんだと?」

「花がまだ咲き残っている」

「わからぬことを言う男だ」

博雅が言う。

「やはり男と女のことで説明してやらねばならぬか」

清明は、そう言って博雅を見た。

「説明しろ」

博雅が言う。

「おぬしに惚れた女がいたとしてだな、おぬしでも呪によって、その女に、たとえ天の月であろうとくれてやることができる」

「教えてくれ」

「月を指差して、愛しい娘よ、あの月をおまえにあげようと、そう言うだけでいい」

「なに?!」

「はい、と娘が答えれば、それで月はその娘のものさ」

「それが呪か」

「呪の一番もとになるものだ」

「さっぱりわからぬ」

「わからぬでいいさ。高野の坊主などは、ひとつの真言で、この世の一切を呪にかけたつもりになっているのだからなーー」(引用終了)

 

 

 


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