狂人というとニーチェを思い出しますね(いや、ニーチェが狂っているという意味ではなく)。
昼間に行灯(あんどん)を持っている狂人が「神は死んだ!」と駆け込んでくるというあのシーンを思い出します。
「俺は神を探している!!」と市場へ駆けてきたあの狂人です。
大衆はそれを嘲り、神様は迷子か?
この話を思い出すといつも、こんな情景が浮かびます。
迷子のためのアナウンスが流れて、「迷子のお呼び出しをします。天界からお越しの神様、天界からお越しの神様、3番窓口で狂人さまがお待ちです」と言う情景が。
余談ながら、かつては待ち合わせは一大イベントでした。
駅の構内の呼び出しもよく流れていました。いまは一人一台のスマホが当たり前でかつては携帯電話で、いまはLINEなどのテキストメッセンジャーでやりとりすれば待ち合わせは簡単です。そのテクノロジーはアップルウォッチのような身体に巻き付けるものになり、必然的に生体に埋め込まれるようになります。
でも、もう「迷子のお呼び出し」の場内アナウンスなんて臨場感を持てない世代ばかりですよね。子どもにはきっとタグをつけるでしょうし(スマホをぶら下げさせるのと同じ感覚で)、それで誘拐や迷子のリスクが下がるなら、喜んで我々は魂を売り渡します(悪いことだとは思いませんし。自由はいつも安全にその場を譲ってきました)。
漱石の時代はハガキがいまのLINEで、「夕方ころに伺います!」と朝出しても届いたそうです。それにふらっと行って、いなかったら帰ってきたりもしています。牧歌的ですw
それはさておき「神を探している!」という狂気の人間の話です。
大勢の人々は彼を馬鹿にして、神様は迷子か、移住か、隠れん坊かとバカにします。
しかし、質問しながらも、彼は答えを持っています。
おれたちが神を殺したのだ!と。ニーチェの最も有名な言葉ですね。
ニーチェのその言葉に深いトランスに入れられたフロイトが、自分たちは本当に神を殺したのだと妄想して書いたのがフロイトの最後の本『モーセと一神教』です(「深いトランス」のくだりは冗談です)。
実はモーセこそが神で、モーセを殺した民族の記憶が「神殺し」につながったと。
フロイト、ユングと言えば、是非この映画を。
フロイトもユングもいまはタブーのように扱われますが、魅力的な人物だと僕は思います。
*キーラ・ナイトレイがユングの患者にして愛人を熱演。
サビーナはユングと別れた後、フロイトの元に行き、精神科医として成功します。
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とは言え、ユングはフロイトが自分のことをモーセと呼ばせていたことを暴露します(厳密には暴露したのではなく、書簡に書いただけですが。そしてその書簡が遺族の反対を押し切って公開されました)(そこには悪質なヤクザものとしてアドラーの名前も上がっています。悪質なヤクザものってw、、、、言い得て妙ですね)
狂人の主張はシンプルです。
神を探しているが、神はいない。
なぜなら我々が殺したからだ。
そして神無き時代は暗く虚しいものであり、その寂寞とした虚空の暗さに昼間に行灯をつけても何も見えない、というものです。
すなわち、彼は狂気ではなく正気であり、昼間に行灯をつける行為もきわめて論理的であったのです。
ニーチェはニヒリズムなどと誤解されます。その発言だけを聞くとそう思いがちですが、、、たとえば狂人は希望についても語っています。
神殺しを偉大な所業と言い、そして「この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」と言い放ちます。
ちなみに表題の「なぜこの狂人が、正気な人と同じように通りを歩くことを認められているのだろう」はルー・タイスの言葉です(p.154)
*ヒッチコックです
この「正気な人と同じように通りを歩くことを認められているのだろう」という物言いというか、手触りが僕はとても好きです。
正確には、これはコロンブスを描写しているところです。地球は平らだと多くの人が信じていた時代に、地球が丸いと考えるコロンブスが狂っていると思うシーンです。
ルー・タイスは史実を語っているのではなく、その場にいてコロンブスと一緒に問題を共有しているのです。
「どうして誰も理解しないんだ!」と嘆いたり、馬鹿な連中だと立ち去るのではなく、どうやったら周りを説得できるかが大事だと考えます。
ルー・タイスは自分がコロンブスだとして、あなたの銀行に融資を依頼にいくとしたら、船の設計図を見せたら、あなたは何というでしょう?と言います。
「これはまた、ずいぶんと大きな船ですね。この平らな地球上で、これを何のために使おうというのです?」
ルー・タイス扮するコロンブスは「地球が丸いということを証明したい」と言います。
すると、「私どもは資金をお貸しすることはできません」と断れれます。
それに対して、ルー・タイスはこう言います。
彼らはただ見えないのです。そのために私を狂人だと思っているのです。したがって、私が勝つためには、彼らにも見えるように手助けするしかありません(p.155)
しかし、資金を手に入れても、次は乗組員の確保があり、その乗組員への説得があり、その家族に危険な渡航を納得してもらう必要があります。そしてこれはコロンブスという偉人の物語ではなく、我々の直面する問題です。
*五回目の説得でようやく資金を得ます。
翻ってみると、あのニーチェの描く狂気の人間もルー・タイスの扮するコロンブスのように皆を説得してみせたのです。
まとめてみると、我々のプリンシプルはシンプルです。
1.Be Crazy one!
(クレイジーであれ)
2.周りを説得せよ
です。
重要で不可欠な人が理解してくれれば、ほかからどう思われようが構わないのです。
そしてその重大で大変な局面に誰もが直面したのです。フロイトもユングもサビーナもニーチェも、コロンブスもルー・タイスも。後知恵で見てしまうとその機微がごっそりと抜け落ちてしまいます。いまそこにある危機として感じ、そして追体験することです。
【書籍紹介】
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狂気の人間。ーー諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、ーー白昼に提灯をつけながら、市場へ駆けて来て、ひっきりなしに「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。
ーーー市場には折しも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。「神さまが行方知れずになっというのか?」とある者は言った。「神さまが子供のように迷子になったのか?」と他の者は言った。それとも神さまは隠れん坊したのか? 神さまはおれたちが怖くなったのか? 神さまは船で出かけたのか? 移住ときめこんだのか?」ーー彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。
狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちにいってやる! おれたちが神を殺したのだーーお前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者なのだ!
おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではない? 寂寞とした虚空がおれたちに息を吹きつけてくるのではないか? いよいよ冷たくなっていくのではないか? たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか? 白昼に行灯をつけなければならないのではないか? 神を埋葬する墓掘人たちのざわめきがまだ何もきこえてこないか? 神の腐る臭いがまだ何もしてこないか?ーー神だって腐るのだ! 神は死んだ! 神は死んだままだ! それもおれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?
世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ(略)これよりも偉大な所業はいまだかつてなかったーーそしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」(フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」125)
ルー・タイスの狂人ということで言えば、たとえば仮名手本忠臣蔵においては、主人公の由良之助(大石内蔵助)は敵討ちをしないかのごとく遊興にふけります。
鎌倉復活を祈る大蔵卿は平家が支配するご時世で阿呆の公家を演じ続けます。
「隠れて生きる」ためには、誤解されても、いやむしろ誤解を招くように阿呆を演じることは大事です。
同じく、桜田門外の変でテロリストによって暗殺された井伊直弼を描いた井伊大老は、同時代の人は私を非難するが、未来の人々の誰かが自分を理解してくれれば良いと思い至ります。「未来の知己」と。愛妾の言葉によって悟るのです。彼もまた阿呆を演じていたわけではないですが、時代が鬼だと断じました。
2月歌舞伎は高麗屋の襲名披露の二ヶ月目でした。
由良之助を松本幸四郎あらため白鸚が由良之助を演じ、井伊大老を兄弟の吉右衛門が演じました。大蔵卿を染五郎あらため十代目幸四郎さんが見事に演じていました。
歌舞伎の演劇としての凄みを感じさせてくれた舞台でした)
ちなみに、染五郎さんあらため十代目幸四郎さんはイヤホンガイドのインタビューの中でミランダ・カーに歌舞伎をさせるという妄想について語り、劇場内にはフランク・ミュラーの広告にタマラ・ロホがいました!
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