「踊りを10年間、書籍で学びました」とか、「水泳で大事なことは、書籍で学びました(一度も泳いだことはありません)」などと言われたら、我々はそのおかしさを突っ込めます。
我々はおそらく「いやいや踊りは本だけでは学べないから、きちんとレッスンしようね」って言えます。
「泳いだことがないのに、どんなに本でわかったつもりになっても、それは『畳の上の水練』よりもひどいよ」と突っ込めます。
これは当然のことです。
本だけでは、踊りも水泳ももちろん学べません。
ちなみに「内部表現の書き換え」は、踊りや水泳、武術などの身体操作を伴う高度な営みよりも抽象度の高い概念です。
平たく言えば、踊りよりも、水泳よりも困難なのが、「内部表現の書き換え」の技の習得です。
「踊りを10年間、書籍だけで学びました」とか、「水泳を本からだけ学びました」と言われたら、そのおかしさは突っ込める人でも、「内部表現の書き換えを書籍からだけ10年間、学びました!」と言われたら、そのおかしさを突っ込めなくなるのはなぜでしょう?
「踊りを本だけでは学べないでしょ」と突っ込むのと同じ感覚で、「内部表現の書き換えを本で学べるわけないでしょ」と我々は突っ込むべきです。
「バレエの教則本だけを読んで、世界最高のバレリーナになりたい」などと言ったら、寝言は寝てから言えと条件反射で突っ込めるのに、「コーチングの本を何冊読んでも、コーチングが学べない」などという人にはツッコミができなくなります。
でも、論理的に考えれば、いや少し頭を使えば、本だけで学ぶなんてナンセンスを通り越していることが分かるはずです。
内部表現の書き換えの下の概念が水泳であったり、踊りであったり、武術だからです。
ですから、水泳のオリンピック選手たちを「内部表現の書き換え」によって導くことができるのです。金メダルも取らせられるのです。
水泳は本で学べないことは百も承知で、それなのにそれよりはるかに桁違いに難しい「内部表現の書き換え」は書籍で学べると考えるのは、相当に傲慢なのか、真面目にものを考えたことがないのか、何なのか分かりませんが、少なくとも論理的とは言えません。
誤解を恐れずに言えば、本を読んでも何も学べません。
本の読み方というのは、僕らが物心がつく頃に、大人たちがやってくれたように「読み聞かせ」しかないのです。
誰かがその本を「読み聞かせ」てくれて、初めて少し「読める」のです。
ガイドが必要であり、教師が必要であり、メンターが必要なのです。
本はひとつの媒介であり、そこに解説者が必要なのです。
我々は自分のスコトーマに、自分では気付けず、スコトーマを放置したまま何か新しいことを学んでも、一歩も成長できません。本の読み方すらも、誰かに「読み聞かせ」てもらうことで、獲得していくのです。
そして「読み聞かせ」られて初めて、自分が読めていないことに気付けるのです。
*アリストテレスがアレキサンダーに「とりあえずそこにある本を読んで、勉強しておいて」などと言ったでしょうか?
*フィールズ賞を受賞した広中平祐氏が、かつてハーバードの学生を2群に分けて実験をしたそうです。ハーバードに来るような学生は優秀なので、わざわざ授業を聞いて、ビット数の少ない音声情報で学ぶことはなく、むしろその授業の時間を図書館で自分で勉強した方が良いのではと思ったそうです。
果たして結果は、ビット数が圧倒的に少なくとも教師の授業を聞いた方でした。情報量が少なくとも「読み聞かせ」の方が有効なのです。
情報量の多さは頭の良さとは関係ありません。
頭の良さとは抽象度の高さです。
情報量を求める風潮がありますが、少ない方が豊かであることが多いのです。
コルビュジェと並ぶ近代建築の巨匠であるミース・ファン・デル・ローエの言葉を借りれば、Less is more なのです。
昔話や神話は余計な過剰な装飾を極限まで切り詰めてあります。
「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」というそっけない記述が豊かな想像力をかきたてます。これが、「568年前の関東地方北部に山田太郎左衛門とその妻キヨが仲良く茅葺きの質素な家に住んでいました」では風情も何もありません。想像力の余地がないのです。いや想像力の余地やら、風情ということで片付かない深い問題があります。
端的に言えば、
Less is Moreです。
少ない方が豊かなのです。
*less is moreの提唱者のミース・ファン・デル・ローエが切手になりました。
少ない少ないテキストをとてもとても大事にして、繰り返し「読み聞かせ」てもらい、それを頭の中で何度もエコーさせることで、実際は猛烈に加速学習できます。
子供はそうやって母国語を短期間に驚くべき正確さで習得します。
豊穣な情報を引き出すためには、シンプルな少ないテクストの方が良いのです。それも「読み聞かせ」付きでです。
ソクラテスは言葉を愛しましたが、書かれた文字を憎んだとも言われます。
話された言葉のみが本当の生きた言葉で、書かれた言葉は死んだ言葉だと。
書かれた言葉が死んだ言葉かは別として、書かれた言葉の多くが読まれることを前提としており、読んで聞かせることを前提としていることは事実です。
耳で聞かずに、目で読んではいけないのです。
たとえば、こちらを目で読むとしたら苦痛です。しかし耳で聞くならば、心地よいものです。
石炭をば早(は)や積み果てつ。中等室の卓(つくゑ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌(カルタ)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人(ひとり)のみなれば。
ご承知のとおり森鴎外の「舞姫」の冒頭です。
親譲(おやゆずり)の無鉄砲むてっぽうで小供の時から損ばかりしている。
という夏目漱石の「坊っちゃん」の冒頭にせよ、あまりに有名な
「吾輩は猫である」の冒頭も同じです。
吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。
同様に平家物語の冒頭も声に出し耳で聞く以外の「読み方」が分からないほどです。
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。
すべて声に出して読まれることを前提としており、「読み聞かせ」ることを前提としています。
読み聞かせながら、その世界を解説し、紹介してくれるガイドなり、メンターなり、先生なり、師匠が必要なのです。
誤解を恐れずに言えば、、、本は読むものではなく、聞くものです。
そして、本で読んでも、説明を聞いても踊れるようになれないのと同じです。
実際に踊ってみて、先生からフィードバックを受けて修正して、また試すという繰り返しをするしか上達しないように、書籍の理解も教師とのフィードバックの応酬で少しずつ深まるものです。
書籍は単なる媒介であり、テクストでしかありません。
教師無しで書籍から学べるというのは、羽が無くても空を飛べるというのと同じ奇妙さを感じます。
踊りを10年、本で学んでも、一回のレッスンに叶わないように、本だけでいくら内部表現の書き換えや、コーチングやヒーリングを学んでも、それは無に等しいのです。それらは太陽が西から昇ることがないのと同じくらい自明なことです。
教師がいて、実践を積み重ねて、ようやく薄皮をはぐように身につくものです。
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「踊りを10年間、書籍で学びました!」と言われたら、そのおかしさは突っ込めるのに
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