「はじめてのクリプキ」の寺子屋講座は終わったばかりですが(音声編集はこれからです)、早速、板書写真は完成しました。
書きなおした板書は、セミナー時より洗練されていて、より分かりやすいかと思います。復習の参考にしてください。
今回はクリプキについてのイントロダクションということで、まずは様相論理の完全性の証明、そのための可能世界意味論、そして可能世界において対象を一意的に指し示す固有名についてざっくりと学びました。
クリプキは我々にとってはヒーローであり、燦然(さんぜん)と輝く偉大な天才ですが、その業績や理論はきわめて難解です。「まといのば」としてもどこかでクリプキは正面から取り上げたいと思っていたので、この寺子屋でイントロダクションができたのは良かったと思っています。
今回は主著である「名指しと必然性」を中心に、3つの柱で考えました。
第一に、論理学の系譜です。
アリストテレスの三段論法という伝統的な論理学を置いておき、フレーゲ以降の形式化された論理学である記号論理学で考えて、まずは命題論理学があり、述語論理学があります。それらの古典論理学の上に、様々な論理学が花開きましたが、古典論理学を包摂して生まれた様相論理学に今回は注目します。すなわち、命題論理学ー述語論理学ー様相論理学です。
それぞれの論理演算は煩雑なので、今回も割愛し、論理演算子の紹介にとどめました。これは初期の寺子屋の「論理学」の復習にあたります。
第二に、クリプキの可能世界論です。
高校生のクリプキが一体何をしたのかと言えば、様相論理学の完全性の証明です。
華々しいデビューです。「高校生(十八歳)の時にアメリカ数学会で口頭発表した様相論理学の完全性に関する証明(クリプキ「名指しと必然性」訳者あとがき p.248 )」(リンクは当該論文)です。
公理系の完全性を言うときには、統語論(syntax)の側からと意味論(semantics)の側の双方から攻める必要があります。クリプキ以前の様相論理学は公理系が乱立しており、Syntaxは充実していましたが、その意味論は曖昧でした。そこに直観主義論理のsemanticsを持ち込んだのがクリプキです。そのsemanticsがその後、クリプキ・モデルと呼ばれる可能世界意味論です。
この可能世界とは何かという問題にもクリプキは鮮やかに答えています。可能世界というとパラレルワールドのようなSF的な妄想をふくらませがちです(悪いことではないのですが)。
第三に、「名指しと必然性」です。
これもそれぞれの可能世界で同じ対象を指し示す言葉である固定指示子に関する見取り図(picture)です(クリプキは理論と言わず、慎重に見取り図という表現を用いながら、論を展開しています)。結論はきわめてシンプルです。諸世界にまたがる同一性という概念は固有名で達成されます。そしてその固有名は親が付けてくれた名前です。親が付けてくれた名前がなぜ諸世界にまたがる同一性を担保するのかと言えば、その名前をそれを聞いた人の耳に入るのは、その共同体に自分が参加しているからです。親が子供に名を名付け、その名を友人知人親戚に話し、その友人知人親戚がまたその友人知人親戚などに話していきます。その連鎖の末端にいて、ファインマンならファインマンという名を我々は耳にします。ファインマンの定義を知って、その名を知るのではなく、共同体の連鎖の中にいるから我々はその名を耳にし、その名を発します。だからこそ、その伝達の連鎖(伝言ゲームの連鎖もしくは縁起のネットワーク)を逆にたどればファインマンにたどりつけるということです。
この3つを柱にして学習しました。
この難解な概念もクリプキ本人が説明すると非常にすっきりします。
たとえば可能世界論について、クリプキはあっさりとこう書きます。
すなわち、一組(2つ)のサイコロがあり、そのサイコロを降ると出る目の可能性は36通りある。そして振って、1のゾロ目など何かのサイコロの目が出るとそれは一通りでしかない、と。すなわち、36通りの可能世界があり、そして目の前には1つの現実世界がある、ということです。
可能世界はこのようなものと考えればシンプルです。
レジュメでは「サイコロを振って知る可能世界」というタイトルで補講3で紹介しました。
(引用開始)
二つのありふれたサイコロ(それらをサイコロAとサイコロBと呼ぶ)を振って、二つの目が現れる。各々のサイコロにつき、六つの可能な結果がある。したがって、目の数に関する限り、一対のサイコロには三六の可能な状態があることになるが、現実に降られたサイコロの現れ方に対応するのは、これらの状態のうちただ一つだけである。様々な出来事の確率の計算方法を(諸状態の等確率性を仮定して)、われわれは皆学校で習っている。(略)
さて、こうした確率の練習問題を学校でやらされることによって、われわれは実際、年少時に一組の(縮小版の)「可能世界」に引き合わされたのである。世界に関して、二つのサイコロとそれらが出す目以外のすべてのことを(仮に)無視する(そして片方または両方のサイコロが存在しなかったかもしれないという事実を無視する)限り、そのサイコロの三六の可能な状態は、文字通り三六の「可能世界」だと言える。これらのミニ世界のうちただ一つだけーーサイコロの実際の出力に対応するミニ世界ーーが「現実世界」なのであるが、現実の結果がどれだけ確実ないし不確実であったか(あるいは、あるだろうか)を問う時には、他の諸世界も関心の的となる。(クリプキ 「名指しと必然性」 pp.17-18)
(引用終了)
学校でやる確率統計のお勉強は期せずして、可能世界論のイントロダクションになっているという話です。
これは可能世界とは何かについての話ですが、たとえば「名指し」とは何か、そして「諸世界の同一性」という概念は何かについてもシンプルに説明しています。
多くの可能世界があり、その中にある同じ対象を指し示すのは「記述」(アレクサンダー大王の書いて教師であるとか、不完全性定理を証明したなど)ではなく、固有名であるという主張です。講演の表題(書籍のタイトルでもある)通りまさに「名指しと必然性」です。
(引用開始)
目下私がつけようとしている区別を説明するためには、通例、そして私の考えではいささか誤解を招きやすい「諸世界にまたがる同一性」と呼ばれる概念が必要である。(略)ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。そうでない場合は、非固定(nonrigid)または偶発的指示子(accidental designator)と呼ぼう。もちろんわれわれは、対象がすべての可能世界に存在することは要求はしない。もしニクソンの両親が結婚しなかったとしたら、通常の成り行きでは、ニクソンは確かに存在しなかったかもしれない。ある性質がある対象に本質的である考える時、われわれは普通、その対象が存在したであろうどんな場合においてもその性質はその対象について真となる、と言っているのである。必然的存在者を指す固定指示子は、強い意味で固定的と呼ぶことができる。
この講義で私が主張しようとする直観的なテーゼの一つは、名前は固定指示子であるというものである。(略)すなわち、直観的に言って、固有名は固定指示子である。
(クリプキ「名指しと必然性」pp.54-56)
(引用終了)
クリプキの主張はここに簡潔に力強く述べられています。
ある言葉があらゆる可能世界において同じ対象を指示するならば、それを固定指示子(rigid designator)と呼ぼう。
この講義で私が主張しようとする直観的なテーゼの一つは、名前は固定指示子であるというものである。(略)すなわち、直観的に言って、固有名は固定指示子である。
固有名こそが、あらゆる可能世界において同じ対象を指示する固定指示子であるということです。
ざっくりと言えば固有名の対概念は「記述」です。
アリストテレスを指し示そうとして、プラトンの弟子であり、アレクサンダー大王の家庭教師であった古代ギリシャの哲学者という記述をしても、それらの弟子や家庭教師や哲学者は必然的ではなく、可能性に過ぎないと考えます。
ではなぜ「記述」ではなく、固有名はすべての可能世界の対象を指し示す固定指示子になるのでしょうか。
これについてもクリプキは明確に述べています(以前にもブログで紹介しました)。
生まれたばかりの赤ん坊に親が特定の名前をつけて、その名前で呼び、その子の名を共同体の中で呼びます。その共同体の輪は広がり、その末端にその子の名を聞いた人があらわれます。すなわち、その名を知るということはその共同体の一員であり、その名が伝達された経路を逆にたどれば、アリアドネの糸のように、その子自身にたどりつけるということです。だからこそ、固有名は固定指示子になりうるのです。
(引用開始)
誰か、例えば一人の赤ん坊が生まれたとしよう。その両親は彼をある特定の名前で呼ぶ。両親は、彼のことを友人たちに話す。他の人々が彼に会う。様々な種類の会話を通じて、その名前は結節点から結節点へとあたかも鎖のように広がっていく。この連鎖の末端にいて、市場かどこかでたとえばリチャード・ファインマンにことを聞いた話し手は、たとえ最初に誰からファインマンのことを聞いたのか、あるいはいったい誰からファインマンのことを聞いたのかさえ思い出せないとしても、リチャード・ファインマンを指示することができるだろう。彼は、ファインマンが著名な物理学者であることを知っている。最終的にその人自身に達する一定の伝達経路が、その話し手には実際に届いているのである。だとすれば、たとえファインマンを一意的に同定できないとしても、彼はファインマンを指示しているのである。彼はファインマン・ダイアグラムが何であるかも知らなければ、ファインマンの対発生・対消滅の理論が何であるかも知らない。のみならず、彼はゲルマンとファインマンの区別にすら困難を感じるであろう。それゆえ、彼はこれらの事柄を知るには及ばないのであり、その代わり、ファインマン自身に辿り着く伝達の連鎖は、彼が結節点から結節点へとその名前を受け渡す共同体の一員であることによって確立されたのであって、彼が自分の書斎でこっそりと、「『ファインマン』によって私は、これこれしかじかのことをした男を意味しよう」という儀式によって確立されたわけではない。(クリプキ 名指しと必然性 pp.108-109)
(引用終了)
前回引用したときより長めに引いています。
我々はここに縁起のネットワークを見るかもしれませんし、伝言ゲームを見るかもしれません。いずれにせよ、ある名を聴き、その名を発するときには、「最終的にその人自身に達する一定の伝達経路が、その話し手には実際に届いているのである」ということです。その「伝達の連鎖は、彼が結節点から結節点へとその名前を受け渡す共同体の一員であることによって確立された」のであり、だからこそ「たとえファインマンを一意的に同定できないとしても、彼はファインマンを指示しているのである。」ということになります。
逆に言えば、これまでの哲学は同一性や定義、意味を慮りすぎて、しばしば『「『ファインマン』によって私は、これこれしかじかのことをした男を意味しようという儀式によって確立』しようという倒立したことをしてきたという痛烈な批判があります。
ちなみに寺子屋でも触れましたが、クリプキはこの「名指し」を親が付けた名前に限定しているわけではありません。親が付けた名前と共同体というモデルからスタートして拡張可能です。
すなわち「牛」や「虎」または「金」や「水」に関しても同じことが当てはまるといいます。
(引用開始)
とすると、私の擁護する見解によれば、自然種を表す言葉は、普通に考えられているよりもはるかに固有名に近いのである。「一般名」という古い術語は、それゆえ「牛」とか「虎」のような種または自然種を言い表す術語にとって、大変適切であると言える。しかしながら、私の考察は「金」や「水」などのような自然種を表す一定の量名辞(mass term)にも当てはまる。
(引用終了)
ざっくりと言ってしまえば、その定義がどうか、どのように「一意的に同定」するかではなく(その定義も、同定の方法もころころ変わるので)、共同体が何を指し示しているか、その名指しこそが対象を同定するということです。
そしてこの「同定の方法」がころころ変わるという点にフォーカスすると次のパラドックスに至ります。すなわち、クリプキ第2弾である「ウィトゲンシュタインのパラドックス」です。こちらのパラドックスのほうが従来の「まといのば」では紹介することが多かったです(今回もこちら側を一生懸命、予習された方も多くいらっしゃいました)。
このパラドックスをシンプルに言えば以下のとおりです。
(引用開始)
『探求』の第二〇一節において、ウィトゲンシュタインは次のように言っている、「我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』
(引用終了)
この冒頭のパラドックスを、「68プラス57は5」になぜなるのかというクワス関数(プラス関数ではなく)などの長い議論のあとに眺めると思わずニヤリ( ̄ー ̄)ニヤリとしたくなるのではないでしょうか。まさにそのとおりと膝をたたきたくなると思います。
クリプキの結論を先取りすると以下のようになります。
(引用開始)
素朴には我々は、火と熱の間に観察される随伴現象を、火の中にある因果的な、熱を作り出す「力」によって、説明しようとするかもしれない。しかしヒューム主義者の言うところによれば、火と熱の間の規則性を説明するためにそのような因果の力を用いる事は、無意味なのである。むしろ事態は逆で、そのような規則性が成り立っている限りにおいて我々は、そのような因果の力を火に与える事を許す言語ゲームを、行うのである。この規則性こそ、どうしようもない生(ナマ)の事実として、とられねばならないのである。そうしてまたウィトゲンシュタインにおいても事態は同じなのである。(彼は『探求』の二二六頁において言っている。)『受け入れられるべきもの、即ち所与、それは・・・・・・生活の形式である。』(クリプキ 「ウィトゲンシュタインのパラドックス」p.190)
(引用終了)
「そのような規則性が成り立っている限りにおいて我々は、そのような因果の力を火に与える事を許す言語ゲームを、行う」という言い方は、「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。」というパラドックスを見事にトレースしていると思うのですが、もう少し砕いた言い方を探しましょう。
たとえば、こんな言説はどうでしょう。
(引用開始)
我々はみな、我々の言語はーー「痛み」「プラス」「赤」といったーー概念を表わし、一度概念を「把握」すれば、その概念の未来における全ての適用は(その把握された概念によって一意に正当化される、という意味で)決定される、と思っている。しかし事実は、ある時に私の心の中にあるものが何であろうと、それを私が未来のいて別様に解釈することは自由なのであるーー例えば私は、懐疑論者に従って、「プラス」を「クワス」として解釈する事が出来るのである。特にこの点は、私が私の注意を私の感覚に向け、そしてそれに命名するという場面に当てはまる。私がある時に行った命名は、それの未来における適用を(さきに述べた正当化という意味で)決定しはしないのである。(クリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」 pp.209-210
(引用終了)
初学者が困惑するのは、なぜクワス算やBreen、Glueのような意味不明な概念を長々と考えて身体にいれなければならないのだろうということです(もちろん本当に興味なければ学ばなくてもいいのですが)。
クワス算は懐疑論者との無意味な論争のためにあるわけではなく、そのポイントは「私がある時に行った命名は、それの未来における適用を(さきに述べた正当化という意味で)決定しはしない」という点にあります。そこを先取りして理解したうえでクワス算の迷宮に入ると(すでにゴールを知り、アリアドネの糸を持っているだけに)、深い迷宮も楽しめるのではないかと思います。
ゴールだけ知っても楽しくないので、迷宮には一度は迷い込むべきと僕は思います。寺子屋はその良きガイドとして機能すれば幸いです。
寺子屋12月講座も募集中です。12月は物語の源流であるギリシャ神話の秘密に迫り、またブラックホールの熱力学から相対論と量子論の狭間を覗き込みます。
またクリプキも含め、バックナンバーの販売も行っております。詳細はこちら。
【参考書籍】
セミナーで紹介したクリプキおよび論理学の参考書籍です。
今回の教科書であり、メインディッシュでした。様相論理学ばかりか、論理学のみならず、言語哲学、分析哲学に大きな影響を与え、すでに古典となり、このパラダイムの上にすべてが乗っていると言っても良いのではないかと思います。
名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題/産業図書
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非常に面白いです。次回は名指しと必然性とこのウィトゲンシュタインのパラドックスでまたクリプキ様に切り込みたいですね。
ウィトゲンシュタインのパラドックス―規則・私的言語・他人の心/産業図書
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今回、直接扱いませんでしたが、こちらの書籍を読まれている方も多かったです。名指しと必然性、そして可能世界論、その前に様相論理の公理系と意味論を理解してから、こちらに切り込まれると良いかなと思います。
クリプキ―ことばは意味をもてるか (シリーズ・哲学のエッセンス)/日本放送出版協会
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論理学の全貌ばかりか、ゲーデルの不完全性定理のゲーデル数化(セミナーでも紹介しましたがpp.364-365)やクリプキと様相論理、可能世界論について非常にわかりやすく紹介されています。
論理学をつくる/名古屋大学出版会
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セミナーのレジュメでも引用させていただきました。やわらかい語り口ながら非常に深く理解できます。
入門!論理学 (中公新書)/中央公論新社
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今回のテーマとは直接は関係しませんが、間接的には大いに関係します。上記の入門!論理学と同じく野矢先生の書籍です。ゲーデルを理解し、カントールを理解するためにも読んでおくほうが良い名著だと思います。
無限論の教室 (講談社現代新書)/講談社
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クリプキ様はサイコロを振って可能世界を観る 〜あまたの可能世界で同じ対象を指し示すのは固有名〜
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