ミネルヴァの梟が黄昏時に飛び立つのと同様に剣術が廃れるときに剣術の最高の指南書が発表されます。
五輪書のことです。
何かが廃れていくとき最終盤に、果実が熟れるのと同じく、最高峰の書が現れます。
スポ根が廃れるときに、スポ根漫画が流行り、「三丁目の夕日」的な共同体が廃れるときに、そういう映画がヒットします。
何かが熱狂的に受け入れられ、そして広まっているときは、その先の次代を予見しているのではなく、古い時代を総括しているだけということです。
その点で、イノベーションとは劣化コピーであり、「枯れた技術の水平思考」というのは事実です。(だから自分が10年くらい使い込んだ古い古いものだけを提供すれば良いのです。生兵法は怪我の元です。生兵法でもなんとかなってしまう愚かな業界なのが問題なのですが)。
ガラケーからiPhoneへと退化することで、eメールからツイッターやLINEへと退化することで、熱狂的に受け入れられ、未来志向のような空気を醸し出します。
ミネルヴァの梟は黄昏時に飛び立つというのはヘーゲルのあまりに有名な言葉ですが、その真意をざっくりと言えば、後智慧ということです。
エピメテウスですね。
ヘーゲルは哲学は出てくるのが遅すぎると言います。
コナンくんが名推理を終えたあとで、「やっぱ犯人はあいつだったよね〜」と出てくるような感じです。
哲学はもともといつも来方がおそすぎるのである。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる。(法の哲学)
現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとで、哲学は現れるとヘーゲルは語ります。
それが、ミネルヴァの梟は黄昏時に飛び立つという意味です。
1日が終わってから、ミネルヴァすなわちアテナイの梟(ふくろう)は起き出すのです。
遅すぎなのです。
このヘーゲルの言葉は錬金術の「書を破れ、心を破らないために」を思わせます。
多くの人がプラトンの呪いを受けています(その中にはソクラテスもいるのかもしれません。我々はプラトンの口からしかソクラテスをほとんど聞かないので)。
プラトンはエウクレイデスにまでもその魔の手を伸ばしているかのようです。
天才ラファエロはそれを十分に理解していて、プラトンとアリストテレスの確執を「アテナイの学堂」に残しています。
ダ・ヴィンチにしか見えないソクラテスは天上を指し、すべてはトップダウンだと言い募ります。
それに対して、アリストテレスはボトムアップだと反論します(ボトムアップは言い過ぎですがw)。
手を良く見てみてください。
我々の多くもまたトップダウンだと思っています。
イデアの写像として現実界があり、情報の写像として物理世界があると確信しています。
だからこそ、書が中心になり、基本となります。
エウクレイデスの書いた数学グリム童話集であるところの原論によって心を引き裂かれた人は多いのです(いわゆる平行線公理を巡る議論のことを言っています)。
エウクレイデスから2500年の歳月が流れて、呪いから自由になった数名の王子様たちによって、お姫様の呪いが解けます。
いわゆる「ユークリッド原論」ははじめて理解されたのです。
非ユークリッド幾何学の発見によって、ユークリッド幾何学ははじめて理解されたということです。
ここでの教訓はシンプルです。
端的に言えば「何も信じるな」ということでしょう(デカルトみたいですけどねw)。
特に書籍や師匠の言葉は信じないほうが良いのです。
自らの内に深く深く入り、その苦しみと痛みの中でようやく見つけた真理を大事に育てることのほうがはるかに重要です(書籍や師匠が果たす機能とは、そのときのシャベルであり、ハシゴであり、ライトでしかないのです。それが分からないから、心を引き裂かれるのです)。
*「読者はハシゴを登りきったあとでそのハシゴを取り払ってしまわなければならない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題6.54)
書籍や師匠の言葉というのは、たしかに正しい部分もあるのでしょうが、しかしそもそもはその筆者や師匠のレベルに達しない限りは、その意味は理解できないものです。
ですから、「何も信じない」とマントラする方がはるかに自分自身にとって教育的ということです。
(と書かれた本稿も「信じるな」という無限後退のパラドックスに巻き込まれるのですがw)
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ミネルヴァのふくろうは、たそがれに飛び立つ。五輪書と三丁目の夕日、書を破れの意味
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