「『ほんとうのたった一人の神さま』とはゴールのことですか?」というご質問をいただきました。
今月のヒーラー養成スクールは「咒とシュメールと神々の取説」であり、神さまを味方につける気功術です。
その神とは何かをやわらかく定義するにあたり、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節を引きました。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」青空文庫より)
ここでジョバンニが語る「たったひとりのほんとうのほんとうの神さま」が、今回のテーマの神さまです。
で、ここで語られている「たったひとりのほんとうの神さま」とは、現状の外に設定するゴールですか?というご質問でした。
ほんとうの神様=ゴール
重要なのはそれがあってるか否かではなく、なぜそう考えたかです。
何をどう読めばそう読めたかの論理的な根拠が必要です。
ちなみに回答は否です。
これを導くのはそれほど困難ではありません。
なぜならゴールは定義上そもそも複数あり、ゴールは日々、一瞬一瞬、更新するものです。
「たったひとりのほんとうの神さま」がゴールでしょうか?
一人なのに複数、本当なのに更新し、改善するというのは、内在的な論理だけで考えても矛盾しています。
それから既成の言葉がすでにあり、それが十分に機能しているにも関わらず、「まといのば」がわざわざ新しい用語を定義する必要がどこにあるのか、ということも考えるべきです。
余談ですが(毒舌かもですが)、タイトルだけで巻き替えて、自分のオリジナルアイデア(オリジナルの気功技術)のようにビジネスをする人がいます。
誰得?って思います。クライアントのためにも自分のためにもならないでしょう。
もしかして、自分のエゴを満たすために、自分のビジネスを破壊するのが趣味ならば、どんどんやれば良いと思います。
自分のビジネスをうまくやりたいのであれば、「セミナー」講座でもテーマであったように道化(a fool)になることです。
気功師が崇め奉られた時代は終わり(おそらく卑弥呼の時代あたりに、2000年前のナザレのヒーラーは磔にされました)、いまはエンターテイナーです。
求められれば、道化が身体を癒し、生き方を癒し、人生を癒します。
ミッキーマウスに生きる力をもらった人は多いと思いますし、リラックマで元気になる人はたくさんいます。
どちらも共通点は人を楽しませているということです。
エゴを捨て、道化になりましょう(≧∇≦)
(「書を捨てよ町へ出よう」のパクリです)
*道化と言えば男性と思っていると、、、、、気持良く裏切られますw
道化は聖と俗を行き来します。
最近の言葉で言えば、ザッピングしていきます。ザッピングとは素早く動くという意味のザップをもっとイキイキ(ing形)させたものです(英語講座が懐かしいですね~、2月には再開します( ー`дー´)キリッ)。
素早く動くには当然ながら強靭な足腰が必要です。特に長い時間、素早く動き続けるには強靭な足腰と体力が必要です。
動くにのは、運動エネルギーが必要であり、運動エネルギーを生じさせるにはもちろん太陽エネルギーを封じ込めたユーグレナを嚆矢とするエネルギーの物質化の回路が不可欠です。
その一方でそれを運動エネルギーに変換する装置としての筋肉も必要です。
端的に言えば体力は筋肉量です。
ちなみに筋肉には2つのファクターがあり、それが筋肉量と可動域です。
平たく言えば、強さとやわらかさが必須です。
フィットネスで言えば、Strength & Conditioningですね(このテクニカルタームは良く出来ているなーと感心します!!)
強度と柔軟性もしくは力(ちから)とぐにゃぐにゃさみたいな感じです。
そして、強さとやわらかさの上位概念であり、それらを鍛えるのに不可欠なのが論理性です。
論理が源泉です。
聖と俗を行き来するには強固な論理性が無くてはいけません。
ザッピングするには論理の力と体力が必要なのです。
無我夢中に走れば、無我夢中に重いものを持ち上げれば、筋力が効率的につくわけではありません(無我夢中の時期はあるべきだと思いますが)。
非常に論理的で理性的なアプローチが必要です(はたから見て、それが狂気に見えるとしても、本人の内的な論理が一貫していれば良いのです)。
その意味で、「本当の神」がゴールというのは、ちょっとだけ安易すぎます。ナイストライだとは思いますが、論理性もなければ、Zapする力もありません。
とりあえず近くにあるもので対応しておくかという安易さがあります。
もちろん安易であったり、自堕落であったり、雑であったりすることが一概に悪いわけではありません。そこに強固な論理性があれば、その態度こそがブレイクスルーを生むことがあります。
しかし論理性が無ければ何もないのです。
論理と愛は同じです。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(お馴染みコリント人13章1節から3節。結婚式でよく使われる「愛の讃歌」ですね)
愛が無ければ何もないように、論理が無ければ何もありません。なぜなら論理も愛も繋ぐものであり、繋がっていないものは無意味か存在しないとみなされるからです。
情報空間と物理空間をZAP(ザップ)する道化もまた繋ぐ者です。
論理と体力です。
そういうZap(ザップ)な在り方を目指しましょう!
来週は神々の世界を広く極限までZapする神気功のスクール開催です!!!
そして、ネーミングが秀逸で話題のRay Zapも申し込み殺到しているようです!圧倒的なZap(激しく動く力)力をつけましょう!
Ray Zapについての「まといのば」講座を企画しようかなーと思っていまるところです(ボソッ)
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「ほんとうのたった一人の神さま」とは、、、、、ゴールのことですか?
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