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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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上澄みだけを掠め取ろうとするから、薄っぺらになる。♬毒を食らわば皿までも♬

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加速学習というのは怠け者のカンニングペーパーとは異なります。

どんな努力をも厭わないという人間に対して、その努力が高いレベルで結実するための呼び水が加速学習です。

何か感動したり、衝撃を受けたり、パラダイム・シフトしたように感じたり、インスパイアされたと感じるのは自由ですが(その衝撃をきちんと吟味する必要があると僕は思いますが)、そこで得られた何らかの果実に対して、上澄みだけを掠め取ろうとするから、傍から見て、非常に薄っぺらな印象になります。

本当に浅いのです。浅くて薄っぺらで、悪い意味で軽いのです。


たとえば、毛利小五郎とコナンが同じ犯人を推理したとして、誰が毛利小五郎が名探偵コナンと同じ抽象度で推理したと考えるでしょうか?いや、ワトソンとホームズでもいいのですが(と書くとシャーロキアンから怒られそうです。いやホームジアンと言うべきでしょうか)。

結果だけを見たら同じ犯人だからと言って、同じ推理をしたと考えられるほど我々は浅はかではありえないのです。


上澄みだけをなんとか楽してかすめとろうとばかりするから、薄っぺらな印象のまま、いつまでも成長しないのです。

毛利小五郎と同じです。眠りの小五郎などとおだてられて、良い気になれる気がしれません。
明らかに自分があずかり知らないところで起きた推理で、自分が評価されて何が良いのでしょうか?
自分の人生が別の何者かによってコントロールされているというのは、まともな神経であれば恐怖以外の何ものでもありません。もちろんまともな神経というのは、まともにものを考えればという意味です。そうでなければ、棚ボタなどと思って、そのまま過ごすのでしょう。降って湧いた幸運などというのは、降って湧いた不幸以上に災難であることは周知です。


いかに素早く上澄みだけをかすめとるかに腐心し、薄っぺらでも何でもそれを自分の評価に換金しようとする浅ましさは資本主義的なのかもしれません。そんな小銭を集めても、塵が積もってゴミになるだけです。

そして、そのような軽薄さが通用するおめでたく、ゆっくりと時間が流れていた時代は過ぎ去りました。そんなのは博物館でしか出会えない、古き良き時代です。

薄っぺらではなく骨太になるためには、「毒を食らわば皿まで」の精神が必要かと思います。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感じです(少し違います)。

上澄みだけではなく、濁った最下層の部分まで全部飲み干すつもりで、がっつりつ組み合うべきです。


親鸞の言葉に「地獄は一定すみかぞかし」という言葉があります。歎異抄です。

自分にはこれしかないと思い、もし師匠である法然にだまされて地獄に落ちたとしても、構わないという覚悟と矜持です。自分にはこれしかないし、これ以外の方法はないのだから、ひたすらにその道を進むだけだという親鸞の潔さと命を賭した深い覚悟を感じます。

毒を食らわば皿までというのは、悪事をした以上は最後までという意味であり、毒を食らわば、皿をなめるほどまでに食べきろ、ということです。しかし、この言葉は、毒を食らわば皿までも食ってしまえとも感じます。むしろ、それくらいの覚悟で学ぶべきで、その気がないのであれば、そう思えるような何かを人生を賭けて突き詰めるべきです。



*この人は「悪法もまた法なり」と言い、毒杯をあおぎました。


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