Quantcast
Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3544

人生とはいわば歩く影、愚かな役者(マクベス5幕5場)

$
0
0

人生は舞台のようなものであるとは誰しもがいう」とは三島由紀夫の言葉です。

これはもちろんシェイクスピアを思い起こさせます。

最近、上映されたMETのマクベスに関連させて考えるならば、「人生は舞台!」ですね。

マクベス夫人が死んだとの報を伝令から聞いたときに、マクベスがそれに回答するのがこちらです。最愛の妻の死に対して、冷静なマクベスはすでに狂気なのでしょう。

このシーンはオペラでももちろんありました。死にさほど驚いた様子もなく、いわば達観しています。

マクベス5幕5場です。

(引用開始)
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
(引用終了)

人生とはいわば歩く影、愚かな役者
舞台にいるときは気取って歩いたり、苛立ってみたりするが、
舞台から去れば、もう何も聞こえない。これはお伽話でしかない
それも、愚か者によって語られるお伽話だ、騒がしさや怒りはあるが、
意味は無い


マクベスはむしろ自分の運命を左右する「森が動く」ということに、あわてます。


*マクベスが三人の魔女に出会うシーン。王になるであろうという予言は嬉しく喜ばしいはずなのに、それが最悪の悲劇につながり、そしてそれを魔女の予言の瞬間にマクベス自身が予感する(1幕3場)というのがこの悲劇の真骨頂です。魔女たちが言うように、Fair is foul, and foul is fair(1幕1場)「美しいものは汚く、汚いものは美しい」のでしょう。我々は然り、然り、否、否をいまの視点で捉えるべきではなく、ゴールから観たとしてもそれは仮の視点でしかないことに気付くことが肝要かと思います。
ヴェルディのオペラは幕開けに魔女は3名ではなく、たくさんおり見事な合唱でスタートし、そしてマクベスと出会うシーンでは3名が代表して予言を告げます。素晴らしい幕開けです。



最愛の妻をなくしたことよりも、Birnam(バーナム)の森が動くことのほうをマクベスは驚きます。魔女からされた、バーナムの森が動くときに自分は滅ぼされるという予言を、バーナムの森は絶対に動かないので、自分は安泰だと受け取ったからです。しかしいつでも予言は成就します。悲劇的な形で。


ちなみに、余談ですが、一足飛びに「まといのば」の結論を言えば、この予言の成就という問題は単なるお話ではないと思っています。平たく言えば、そして運命論的に言えば、我々の運命は決まっている。しかしその制約を能動的に受け入れることで、人は自由になると考えます。

その運命とは何か?未来は不確定なのではないか?という意見や反論は最もですが、それはおそらくは近代啓蒙的な楽観に染め抜かれています。

未来が決まっているという運命論ではなく、我々がいまここに生きており、一回性の制約にあるということが「運命」と呼ばれる概念の中心命題ということです。

イエスもそうでしょうし、バルトもおそらくそうだと思うのですが、現実の生の一回生を無視した議論を「律法主義」と批判したのです。律法原理主義は夢を見ているのです。抽象的な生などありえないということです。

しかし我々は思考にも言語にも言葉を遣います。言葉は容易に抽象的な方向へ誘います。

だから「真理」は語りえないのでしょう(中論では、否定によって、語らぬことで、真理を浮き上がらせようとします)(ちなみにここでの真理とはアプリオリではなく、正しい考え方という程度のものです)。



閑話休題


三島由紀夫に戻ります。

(引用開始)
 人生は舞台のようなものであるとは誰しもいう。しかし私のように、少年期のおわりごろから、人生というものは舞台だという意識にとらわれつづけた人間が数多くいるとは思われない。
(引用終了)

このしばらくあとに、以前も紹介した劣等生の話と、カンニングよりも悪い方法で進級した話が出てきます。

しかしきちんと読み返してみると、自分の理解の浅はかさに気付かされます(再読は中学生のとき以来です)。

この劣等性の話はメタファーであり、「懸命に知っているように装う」のは性知識なり、性欲の問題でした。

三島がここで描いているのは、人生を捉える自意識の問題ではなく、性欲の問題です。

(引用開始)
念のために申し添えねばならぬが、私がここで言おうとしていることは、例の「自意識」の問題ではない。単なる性欲の問題であり、未だそれ以外のことをここで言おうとしているのではない。(引用終了)

これに続いて比喩として、劣等性の話が続きます。これは以前も引きました。

(引用開始)
もとより劣等性という存在は先天的な素質によるものながら、私は人並の学級へ昇りたいために姑息な手段をとったのだった。つまり内容もわからずに、友達の答案を試験中にこっそり敷写しをして、そしらぬ顔でそれを提出するという手段であった。カンニングよりももっと知慧のない・もっと図々しいこの方法が、時として見かけの成功を収める場合がある。彼は上の学級へのぼる。下の学級でマスターされた知識を前提にして、授業は進行し、彼にだけは皆目わからない。授業をきいていたって何もわからない。そこで彼のゆく道は二つしかなくなってしまう。一つはグレることであり、一つは懸命に知っているように装うことである。(引用終了)三島由紀夫「仮面の告白」(p.96 新潮文庫)

劣等生ではなく、劣等性です。ここでは劣っているというニュアンスというよりは、趣向であり、趣味、もしくは性質の問題です。性的な立場について語っているということです。遺伝における優性、劣性と同じで、そこの序列はないと考えるほうが自然でしょう。

三島は女性に対して性欲を持てないが、もっているかのように装うということです。

私が女の事柄については他の少年がもっているような先天的な羞恥をもっていない」(p.99)とあります。


まあ、読解を誤っていたとしても、引用として観る場合はメタファーとして読むので(学校生活に応用したいと考える人も多くないでしょうし)問題ないと言えば、問題ないのですが。

ただ僕のように文脈から切り離して、文章を理解してしまう癖がある人間は有害です(と、学部時代によく批判されました。教師から)。実際にそのとおりだと今は思います。地道な読解と理解が結局は重要で、早見えは確実に転びます。


話を戻して、「人生は舞台」というのはシェイクスピアのテーマです。

僕は小学生のころに学校で演じた(笑)「ヴェニスの商人」においては、冒頭でアントニオがこう言います。1幕1場です。

ANTONIO
I hold the world but as the world, Gratiano;
A stage where every man must play a part,
And mine a sad one.

GRATIANO
Let me play the fool:

私は世界をただ世界であると考えているだけだよ、グラシアーノ。
その舞台では、それぞれが自分の役割を果たすんだ。
そして、俺の役割は悲劇だ。


この哀しげで達観したアントニオのキザなセリフに対する友人の返答が粋です。

じゃあ、俺は道化をやらせてくれ」と。


端的に「この世は舞台、男も女もみんな役者だ!」とは「お気に召すまま(As you like it)」の有名なセリフ。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players



人生はつかの間の舞台、歩く影とたとえ悟っていたとしても、その幕引きはさびしさがつのります。
特にそれが唐突である場合はなおさらです。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3544

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>