爪先、指先といった場合は、一般には指のことを指します。足の指なり、手の指です。
ですた、「まといのば」では爪先、指先をDotsの1つと考えます。Dotsというのは点のことです(日本語には名詞に単複の区別がありません。気分的には点達という感じです)。
この「点」の視点で考えると、爪先や指先というのは爪の先の空間を指します。指の先にある空気しかない空間に、爪先や指先という点があると考えます。
その概念上の点が先にあって、その点に指が操作されるように動きます。指の先に指先が在るのではなく、指先に指がぶらさがっているのです。
これはもちろん現実の解剖学からすれば誤りですが、このような思想の逆転をすることが重要と考えます。
点が先にあり、肉体があとにあるのです。このコペルニクス的転回を指して、トランスと呼んでいます。
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はじめに「点」ありきです。
というわけで、「まといのば」の聖典から該当箇所を引きます。
(引用開始)
初めに点があった。点は肉体と共にあった。点は肉体であった。
この点は初めに肉体と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この点に命があった。そしてこの命は人の光であった。
(引用終了)(念の為に書いておきますがパロディです。出版社は多分「民明書房」ですw)
そして我らがイメージビデオですw
この太鼓の音などを自分の中に深くアンカリングして、「点」の感覚を養うのは良いアイデアだと思います。音というのは、臨場感を構成しやすいのです。そして、トランスに入るときには、概念よりも音、光、匂いのほうが強力です。もちろん繰り返しトランスに入った後は、概念だけに昇華したほうが良いのです(それを「偶像崇拝の禁止」と呼びます。偶像のように想起し、触れる存在では抽象度が十分に上がらないのです。それでは物神崇拝なのでアニミズムのレベルにとどまるのです。飛翔するには、ライナスの毛布は捨てなくてはいけないのです。地上に縛り付ける毛布を捨てれば、天上界に戻れるのですw)。
頭頂部も同じです。
頭頂部を百会(ひゃくえ)と言いますが、そこも頭蓋骨上の点です。ですが、頭蓋骨の上にある点と考えるより、百会という点に頭蓋骨がぶらさがっていると考えるほうが、身体が高度に生まれ変わります。
背筋を伸ばしなさいと言われて、筋肉を意識して伸ばす人と、吊られていると考えて伸ばす人では力感が異なります。一生懸命にバベルの塔のように高みを伸ばす人と、天女が降りてきて、羽衣で岩をなでるのとは違います。スッとした雰囲気を出したければ、白鳥の逸話のように見えないところでせっせと漕いではいけないのです。
見えるところでの努力などは、凡人の逸話でしかありません。本当に見えないところに、努力は積まれています。天に宝を積まなくてはいけませんw(マタイ6章19節)
(引用開始)
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
〈引用終了)
物理世界での分かりやすい努力自慢は、凡人たちの傷の舐め合いに終わることが多いのです。醜さに満ちていますw(それはそれで1つの人生です)。
情報空間に徳と宝を積みましょう!
そのための第一歩ならぬ、第一点がDotsですw
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爪先、指先、百会という「点」で身体を構成するとスッキリした動きになる
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