結跏趺坐というアーサナというかポーズがありますが、いわゆる瞑想や禅や仏道修行で行う結跏趺坐と、Yogaでの似たアーサナは異なるというのが、Yogaスクールの中での発見の1つです。
端的に言えば、瞑想などで長いこと結跏趺坐を活用していた人はなかなかYogaのアーサナで結跏趺坐を用いることができません。
似て非なるものなのですが、あまりに似ているのでフレーム同士が激突していることに気付かないのです。ですので、結跏趺坐に問題があるなどとは思いもよらず、他の部位が固いと勘違いします。
たとえば、次のポーズも確かに足の組み方は結跏趺坐ですが、Yogaのアーサナの結跏趺坐です。
Yogaと瞑想での結跏趺坐は異なるのです(いや、もしかしたら、そんなことは無かったと半年後にまた前言を翻すかもしれませんが、今のところでの暫定的な結論です)。
似て非なるものであり、微妙に異なるがゆえに瞑想で結跏趺坐が得意な人はYogaのアーサナができなくなります(いや、そういう場合が多いだけですが)。
古いフレームが新しいフレームを阻害するというよくあるパターンです。もしくは新しいフレームの学習を古いフレームが邪魔します。
結論から言えば、Yogaのアーサナとしての結跏趺坐は組み方が深いのです。そして組み方が深いゆえに膝が少し前に出ます。それに対して通常の(と我々が考える)結跏趺坐は組み方が浅く自然で、膝が横向きになります。Yogaが前向きに近いのとは異なります。
ただこの違いは非常に微妙です。ただ微妙ですが、アーサナとしてはまったく異なるために、瞑想の結跏趺坐からはYogaのアーサナに入るのは困難です。
些細なことですが、非常に重要です。
Yogaという知恵の輪を解いているとこのようなケースにいくつもぶち当たります。
それを解いていくのがまた楽しいのですが(^^)
2期でのテーマを一言で言えば、「アライメントはさておき、タブーを犯そう」です。
すなわち、ここではアライメントやセンターという考え方が古いフレームとして機能します。
ですので、「アライメントやセンターはさておき」の精神でYogaには取り組みます。むしろありえないほど悪い身体の使い方をすることで、知恵の輪が解けてきます。正しい身体の使い方を目指すためにハタをやってきたのに、逆に全くのタブーを犯す感覚です。
しかし実際にはそのタブーを含めた身体の使い方こそがまさに「正しい身体の使い方」です。身体の自由ということとつながります。
それを一言に集約すれば「姿勢制御」ということになります。重力中心主義からの解放です。
ちなみに、タブーも含めた身体の使い方をするからこそ、姿勢維持とか姿勢保持のような従来のインナーマッスルの機能を表す用語を避け、無重力状態での姿勢コントロールの用語を用いています。重力の多寡はあれど、地上もまた宇宙空間の1つです(彼らは自由落下運動中なので、決して無重力ではないですし)。
知恵の輪の解き方は一通りとは限りません。幾通りもある中でその人の身体の状態や脳の状態にあったものを組み合わせて試します。何がうまくいくかはできてみないと分かりません。
そして仲間内でワイワイとやっているときが一番、知恵の輪がほぐれやすくなります。
独りの時はひたすら地道に基礎練習をして、皆でワークする時に(たとえば講習会などで)新しいことを試すのが一番だと思います(こちらも指導を入れられますので、回り道が防げます。もちろん回り道も無駄ではありませんが)。
そして基礎練習なり、基礎訓練の最たるものが解剖学・生化学・脳科学であることは言うまでもありません。すべては脳から始まり、身体全体に広がり、周囲の人間から、社会に広がっていきます。その中心を脳と置いても、魂のような情報状態においても自由ですが、ベクトルはいつも内から外へです。脳をスルーして、身体からゴリゴリ変えようとしても、それは無茶というものです。
内から外へ変えていきましょう。
Yogaスクール2期は今月末開催!!
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結跏趺坐は結跏趺坐でも、瞑想や仏道修行とYogaでは違うの?
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