「正しさ」ということが厄介なのは、そこに「基準」が隠されるからです。隠されていることが厄介なのではなく、気づけないことが多いことが厄介さを産みます。
サンデル教授の「これからの正義の話をしよう」が示しているのは、正義というのは基準が存在するということです(多分)。その基準がバラバラのもままに議論をしても、いつまでも平行線です。
というか、我々は自分の拠って立つその「基準」が見えづらいので、余計に厄介です。
逆に自分が拠って立つその基準が見えていれば、そこから自由にもなれます。基準というのは文化とか、社会性とか、フレームとかパラダイムなどの概念でぼんやりと理解されるものです。
自分の拠って立つ基準の無謬性をなぜか確信してしまうこと、そしてその基準自体をa priori(アプリオリ)と言ったりもします。アプリオリの別の名は神です。
で、本稿で伝えたいのは、そのような繰り返された議論ではありません。
正しさというのが絶対的なものではなく、相対的である以上は、世界のどこにも絶対的に「正しい」情報など無いということです。
絶対的な正しさというと、右左(みぎひだり)を思い出します。すべての人に妥当する「右」という概念はありません。ある向きを「右」と言う人がいて、その向きは「左」だと考える向き合った人がいます。
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「いや、それは右であって左ではないよ」などと論争になったりはしません。「あなたの向きからは左なのですね」で終わりです。
もしも論争していたら、永遠にその論争は終わりなく続きます。
右だ、左だと言い合って、ついには骨になってしまいます。
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*右なのか左なのかそれが問題だ...
いや、まあ余談ですが、カントの著作に「永久平和のために」というものがあります。カントはこの大げさな名前は1つのユーモアであることを明かしています。すなわち、オランダの食堂宿にあった墓場の絵に掲げられていたものであったと。墓場は永久に平和です。生きているものだけが争います。カントというと小難しい大哲学者のイメージがありますが(9割ほどは正しいですが)、彼も日々生きていた人間であり、ユーモアを解し、自分を笑い飛ばす達人であったということです(ユーモアは自分を笑い、エスプリは人を刺す、と僕は高校時代の恩師に学びました)。
右か左かで争ったまま、時間が経ち、そのまま墓場に入ってくれれば、もしかして人類にとっては幸いなのかもしれません。
閑話休題
すべての運動が相対的であるというのはアインシュタインの発見であり、そのとき絶対的な時間と空間というイメージは崩壊しました。絶対的な時間と空間というのはニュートンの絶対時間と絶対空間を想起しますが、それを哲学として定式化したのがカントです。純粋理性批判の中での課題は「アプリオリな総合判断は可能か?」というもので、そのアプリオリな総合判断の対象はこの時間と空間という思考形式でした。すなわち、ニュートンの絶対時間、絶対空間です。
この絶対空間という形式を底支えしているのが、ユークリッド幾何学であることは言うまでもありません。
すなわち、ユークリッド、ニュートン、カントは一列に並ぶのです。
カントはニュートン力学を哲学に昇華させたと言えます。しかしその瞬間にガウスたちが非ユークリッド幾何学を打ちたて、リーマン幾何学は一般相対性理論を支えます(ユークリッド幾何学がニュートン力学を支えたように)。
これはニュートンとカントの否定に見えます。知の巨人(進撃の巨人ではなく)の失墜です。
と思いきや、厳密にリーマン幾何学を考えると、リーマン幾何学は曲率のある幾何学であり、曲率がプラスかマイナスかゼロかで分けて考えます。曲率ゼロとは平らということです。平らということは、ユークリッド幾何学と同じです。すなわち、リーマン幾何学なり非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学を否定してのではなく、包摂したのです(キリスト教が次々と他の宗教を破壊しながら併呑していったように。元は砂漠の宗教なのに、なぜか雪の中をトナカイがエンジンのソリに乗った横方向に不自由な身体の聖人にはあまり見えないおじいさんがおもちゃを子供に配ります)。
とすると、ニュートン力学は曲率を考えない近似解であるとも言えます。またカントは宇宙の真理と言ったのではなく、「思考形式」だと言ったに過ぎないとも言えます。
ここで思い出すのはジル・ボルト・テイラー博士です。左脳が壊れるとは、時間と空間という思考形式を失うことだ、と。左脳に脳卒中を起こすという稀有な(そして危険な)体験を通じて、ジル・ボルト・テイラーは時間と空間という思考形式を失い、ニルヴァーナを体験します。逆に言えば、ニルヴァーナとはカントの言う「アプリオリな総合判断」を失うことです。なぜアプリオリと言えるかと言えば、それは脳の機能の1つだからです。なぜ総合判断と言えるかと言えば、それは後天的にも経験的にも学習されるからです。
そう考えると、カントの偉大さが翻ってよく理解できます。
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*カントの名前であるイマニュエルはもちろん聖書のインマヌエル(神は我らと共に)から来ています。そもそもはパパである天使が名付けたイエスの名前です(最初しか出てきませんが)。我らがヒーローのマニュエル・ルグリさん(元パリ・オペラ座エトワール、現ウィーン国立バレエ芸術監督)のマニュエルもインマヌエルから来ています。
時間と空間という形式はアインシュタイン以降も残ります。ただ「あなたの時計と私の時計は異なる」というだけです。「私の地図とあなたの地図も微妙に違う」と。それは「あなたにとっての右側と私にとっての右側が違う」のと同じというこです。
同時刻の相対性という概念で鮮やかにアインシュタインは示しました。ある慣性系と別な慣性系では流れる時間の速度が変わりますし、同じものを観測しても別なものとして見えます(同時が同時に見えません)。
これをより厳密にすると、慣性系ならぬヒルベルト空間が浮かんでいて、観測するというのは観測するという系への写像であるという量子力学のイメージになります(「観測を前提とするな」とハイゼンベルクに言ったのは他でもないアインシュタイン自身でした)。
そんな先人の巨人の肩の上に我々は乗って、未来を望んでいます。
一足飛びに結論へ飛ぶならば、世界のどこかに正しい情報があるはずだという信念は不要であるということです。そうではなく、いまの自分にとって、今の自分の現状にとって有効な情報が目の前にある、と考えることがポイントになります。現状にとって有効とは、現状を打破するのに有効ということです。
「目の前にある」とは文字通りの意味です。目の前にあります。そしてその情報が一般に正しかろうが、一般に間違っていようが(「一般に」って何?と聞けば良いですし)関係ありません。社会性とかどうでも良いので(頭の中だけならば)、ともかく自分なり現状なり、自我を破壊し移動してくれる情報を拾いましょう。
日本には機縁などと言う言い方がありますし、西洋だと予兆、前兆などの概念があります(良寛などの伝承もその文脈で初めて理解できるかと思います)。
もしくはセレンディピティ。ちなみにセレンディピティとは口を開けていたら、美味しいものが放り込まれるという話ではなく、能力のことです。強いて言えば無から有を生み出す能力です。ランダムな事象から強引に意味を見出す能力です。現象ではなく能力です。
自分にとって適切な情報を拾って自我が変化したら、次へ行きましょう。自販機でお茶を買って、お茶を飲んだらペットボトルを捨てるのと同じです。いつまでも空のペットボトルを抱いていても仕方ありません。脳の中の情報もどんどんリサイクルしましょう。身体の中のアミノ酸もどんどん代謝しましょう。
【参考書籍】
本文中に紹介した書籍などです。
永遠平和のために (岩波文庫)/岩波書店
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これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)/早川書房
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部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話/みすず書房
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進撃の巨人 コミック 1-12巻セット (講談社コミックス)/講談社
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パリ・オペラ座のマニュエル・ルグリ/新書館
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【参照動画】
というわけで、本稿と関係あるのかないのかわかりませんが、最近ヨガ講習会などでも何度も話題に出る蛯名さんのパフォーマンスをすべて一気に。
本日の長谷川豊さんのメルマガに紹介されていました。
日本の風俗を理解する上で便利かなと思うのと(この事象の反復なので)、釣り加減が絶妙なので、面白いです。
*ネタバレ注意ですが、音声に注意してください。ラストの大音量に注意をm(__)m
ちなみにあの「雪道は怖い」のシリーズです(僕は怖いのは苦手です)。
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世界のどこかに正しい情報があるのではなく、自分にとって有効な情報が目の前にあるだけ
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