音楽の父とも言われるバッハに二宮尊徳のような修行時代(月光写譜)があったとは、面白いというようなコメントをメンバーさんから頂きました。まさにそのとおりです。
c.f.ところが、二〇世紀においては、それは至難の業だったからである〜月光写譜とプルーストのケルト神話〜 2023年06月27日
*坂本龍一さんが敬愛したグレン・グールド(真似をしすぎて、ピアノでは背が曲がるようになったとか)
*とても素晴らしいエッセイ集。坂本龍一さんを自分は誤解していたと思いました。
バッハも一日にしてバッハになるわけではなく、サティもラフマニノフもシューベルトもベートーヴェンもモーツァルトも皆、我々と同じように苦しい日々を生き抜いて偉大な人間になります。
ヒーラー/メンターのセッションでも少し話題に出たベートーヴェンのいわゆる弟に向けた遺書もなかなか壮絶であり、泣けます。
(青空文庫)
自分にとって、大事な聴覚を奪われ、それを周りに気付かれまいとするために、どれだけの不評を得たか、そして静養によって治るという一縷の望みを託したものの、希望は絶望に変わり、死を何度も考えた若き天才の言葉です。
ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝(さら)け出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。
プロの音楽家として活躍しようとしている時期に、
ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝(さら)け出しに行くことがどうして私にできようか!
というのはまさに痛烈な叫びです。
音楽家にとって聴覚は何も増して大切でしょう。
僕らで言えば、共感覚が失われ、情報空間が観えなくなるような恐怖です。
実は、、、このブログ記事はスメタナの「ヴルタヴァ(モルダウ)」から始めるつもりでした。
モルダウ川の光景が描かれたチョコの作曲家スメタナの傑作です。
c.f.【寺子屋参照資料】軽いロマン派の中にあって重量級の後期ロマン派と、心地良い重さの国民楽派! 2015年07月07日
いや、より正確にはラヴェルの「ボレロ」から(僕はボレロを遠くから幌馬車が来る情景を描いているとずっと勘違いしていました。幌馬車で水戸の御老公かやってくるのかと)。
いや、実はもう少し遡って、Adoちゃんの「新時代」から、ドボルザークの「新世界より」。
c.f.♫信じたいわ この未来を 世界中全部 変えてしまえば、、、夢を見せるよ、新時代だ♫(Ado) 2023年06月20日
そしてターナーの鉄道(『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』)から始めるつもりでした。
それに絡めて、鉄道の駅がもとになったオルセー美術館も。
ターナー『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』
父が幼少期の時分に、珍しかった自動車が道を通るたびに、その排気ガスの匂いに文明を感じていたそうです(僕は逆に都会から父の実家に帰るときに、豚小屋や牛小屋の堆肥の香りに何か好ましいものを強く感じていました)。自動車だけではなく、鉄道がまさに異世界への通路でした。
c.f.
ドボルザークはアメリカに渡って「新世界より」の中で大好きな鉄道の音を再現しています。
たとえば、この部分!(のちの映画『ジョーズ』の元です)
「本物の機関車が手に入るなら、今までに私が作ったすべての曲と交換してもかまわない」(ドボルザーク)
で、何が言いたいかと言えば、自然を描くという手法(ラヴェルも踊りを描くということでは、広い意味で自然を描く)を踏まえて、ベートーヴェンを考えると、なかなか痛切です。
このベートーヴェンの遺言の注記にこんな言葉があります。
小鳥たちの声を聴きうるためにベートーヴェンに遺されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーヴェン自身のうちに歌わせる事だったのである。
ベートーヴェンはこう書きます。
けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛(フレーテ)の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***!
それについて、こんな注記があります。
***原注――この痛切な嘆きについて私(ロラン)は一つの解釈を――今なお一度もなされた事がないと信じる一解釈をここに表明しておきたい。――『田園交響楽』の第二楽章の終りに、オーケストラが夜啼鶯(ロシニョール)と郭公(カッコウ)と鶉(うずら)の啼き声を聴かせることは人の知る通りであり、確かにこの交響曲のほとんど全部が自然のいろいろな歌声とささやきで編み上げられているともいえる。多くの美学者たちが、自然音の模倣描写であるこの曲の試みを是認すべきか、或いはすべきでないかということをしきりに論じて来た。しかもそれらの学者のだれ一人、「ベートーヴェンは(自然音を)模倣描写したのではない、何となればベートーヴェンには(自然音が)何にも聴こえはしなかったのだから」ということに気づいていない。ベートーヴェンは、自分にとっては消滅している一世界を、自分の精神のうちから再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのは正にそのためである。小鳥たちの声を聴きうるためにベートーヴェンに遺されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーヴェン自身のうちに歌わせる事だったのである。(les faire chanter en lui)
実は、これはスメタナも同じでした。
彼も完全に聴覚を失っている中で、「モルダウ」を書いているのです。
作曲は『リブシェ』の完成後すぐに着手され、第1曲『ヴィシェフラド』が1874年に完成した。これと前後してスメタナは聴覚を失っているが、作曲活動は続けられ、最後の第6曲『ブラニーク』は1879年に完成した。(Wikipedia)
ベートーヴェンは「田園交響楽」を耳が聞こえない中で鳥のさえずりを書き、スメタナは小川のせせらぎが大きくなる様を耳が聞こえない中で書いているのです。
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。――二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間(フィロゾーフ)になることは容易ではない。これは芸術家にとっては他の人々にとってよりもいっそうつらいことだ。
(以上、青空文庫(「ベートーヴェンの生涯」岩波文庫)より)
最後に若きベートーヴェンからのメッセージで終わります!!
お前たちの子らに徳性を薦(すす)めよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。――さようなら、互いに愛し合え!――
さようなら、互いに愛し合え!
【精神科医紹介!】
以前も紹介しましたが、我々の仲間が満を持して、独立して病院オープンです!
c.f.人工知能は将来人間になれるのか?〜我々は宇宙をあまりに限定された世界に閉じ込めすぎたのか? 2023年05月25日
後ろ戸を開けまくったら、本当に人生が急展開しました。
いや、それまでも壮絶な人生でしたが、加速しました。
加速した壮絶な状況に「馴染んできている」そうなので、ますます進化されていると思います。
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