*寺子屋の音声教材「クリプキ」を配信開始しました。
クリプキが理解し難いのはその難解さもあると思いますが、むしろそれよりは易しいと思ってクワス算あたりから入ることにあると思います。
クリプキが想定する懐疑論者とクリプキ様を同一化してしまい、「哲学者はなんでこんなくだらないことに時間を注ぐのだろう」と思ってしまいます。
理想化された懐疑論者はたとえば68+57=5であることを、あなたに納得させようとします。ありとあらゆる方法で反論しても、懐疑論者に我々は勝てません。「ああ言えばこう言う」を通り越して「泣く子と地頭には勝てぬ」と言いたくなります。でも「懐疑論者は間違っています!」と思いたいし言いたいのですが、間違っているのは実は我々の思考形式なのです。
しかし、クリプキの思想を知るためにクワス算から入るのは決して薦められるものではありません。やはり「狭き門より入れ」です。また変な解説書から入らないほうがいいようにも思います(ましてやインターネットは玉石混交です。石ばかりです。このブログもネットにあるので、自己否定ですが)。ではどこから学ぶか。理想的にはきちんとした哲学者から教わるのが一番でしょう。少なくとも僕は「寺子屋」で語るコンテンツはきちんと大学なりで学んだことを公開しています。学問というものの基本は対話であり、対面で学ぶことだと思います(とこれもまた大学で学びました。その意味でクリプキの少なくとも邦訳されている著書が2つとも講演録という語られた言葉であることは興味深いと言えます。いや「ウィトゲンシュタインのパラドックス」は講演録ではないという主張があるのは分かりますが、もともとはカナダにあるロンドンという都市で行われた「ウィトゲンシュタイン会議」の最終日のクリプキの講演録が原点です。それに大幅にクリプキ自身が加筆修正して論文にし、それにまた大幅に加筆修正したのがこの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」です。ですから講演録⇒論文⇒書籍という流れです)。
それはさておきクリプキ様です。
哲学というのは、哲学史などというものとは独立のその哲学だけで完結していなくてはいけないという考え方があります。それはかつて哲学を学んでいた者としては十分に頷けますし、理解できます。
しかし哲学のみを学ぶのではなく、哲学も学ぶ者としては、哲学史という巨大なゲシュタルトの中でその哲学を位置付けたほうが理解が進むように思います。まずはゲシュタルトというマップの中で位置づけて、それから個別撃破(理解)のイメージです(これは好みもあるようです。この方法が良いから選択するのではなく、この方法がうまくいくから選択するという感じです。もしこの方法がうまくいかないなら別な方法を採用すべきということです)。
という長い前口上の末に、「3分で見えてくるクリプキ」です。
クリプキが何をしたかと言えば、その高校生のときの華やかなデビューがすべてと言えますが(いや、その後も素晴らしいのですが、ゲーデルにとって不完全性定理、アインシュタインは相対論で記憶されるように)、様相論理学の完全性定理です。
その前に論理学をざっくりと復習します。
論理学と言えば、アリストテレスにさかのぼります。アリストテレスは最も重要な学問は論理学であると考えました。いまで言うと三段論法ですが、オルガノンという著作で知られています。オルガノンとはToolです。オルガノンとアリストテレスがつけたのか、後世の人がつけたのかはともかく論理ということを重要であると共に、Toolでしかないと少なくともアリストテレスは見なしていたのでしょう。アリストテレスの論理学はカントの言うようにある意味で完結してしまっており、論理学が大きくパラダイムシフトするには2000年待たなければいけませんでした。
アリストテレスがそれまでの論理学をまとめ上げることで1人で完成させたように、形式化された記号論理学自体も実質的にフレーゲ1人が創りあげたように見えます。
フレーゲが創りあげたのが、いわゆる古典論理学です。命題論理学と述語論理学です。
「まといのば」の寺子屋でも、いったん概要をつかむために論理演算自体は飛ばしています(来年取り組みます、多分)。演算はせずその記号だけに親しんでもらっています。
命題論理学においては、4つの論理演算子が演繹推論を司るということです。
その4つとは、否定、連言、選言、条件です。~ではない、かつ、または、もし~ならば~、です。
記号は、
¬、∧、∨、⇒、
です。
というか、たった4つですべての文章(命題)の論理が支えられているということがスゴイと言えます。文章の原子(アトム)はこの4つということです。
という命題論理学に「すべての白鳥は白い」とか「黒い白鳥がいる」という「すべての~」や「存在する」という量化を加えたのが、述語論理学です。「∀ (すべての~)」「∃ (存在する)」です。
ちなみにファーストオーダー(一階)の述語論理学の完全性を示したのは、あのゲーデル先生です (1929)(学位論文での発表は翌30年)。
で、様相論理学の完全性を示したのがクリプキ先生です。
完全性定理というのは、シンプルに言えば、統語論と意味論のマリアージュです(シンプルじゃないですね)。統語論の世界があり、全く別に意味論の世界があります。統語論の世界は記号操作の世界で、まあ公理系の世界です。
その中で完結しています。その感触は点と直線と平面というかわりに、テーブルとイスとビールジョッキと言ってもかまわないというヒルベルトのつぶやきに端的にあらわれています(リンクは同名のタイトルの拙ブログ記事)。
The elements, such as point, line, plane, and others, could be substituted, as Hilbert says, by tables, chairs, glasses of beer and other such objects.Wikiより
(「点とか線とか平面とかゴチャゴチャある名前なんていうのは、テーブルとか椅子とか、ビールジョッキとかそんなものに替えちゃっていいんだよ」とヒルベルトおじさんは言いました)
意味論の世界とは意味の世界です。真理の世界です。
統語論と意味論はバラバラの王国で、それぞれで完結しています(完結しない場合は破棄されます)。その統語論の王国と意味論の王国を架橋して、対応付けして、その対応付けに漏れがないことを示すことに成功するとそれを完全性定理と言います。
で、ゲーデル先生はそれを述語論理(一階)で成功させ、クリプキ様はそれを様相論理学で成功させました。
ちなみに様相論理学というのは、非古典論理の1つですが、古典論理学を包摂しつつ、新しく論理の様相を取り入れたものです。すなわち可能性と必然性を入れました。
たとえば「イチローが大リーガーでないことは可能である」という命題は真ですが、「イチローが大リーガーであることは必然的」と言われると運命論者以外は頷き難いのではないかと思います。
もしくは「明日、カレーライスを食べる」という命題の真偽値も現在の時点では決まりませんが、「明日、カレーライスを食べることは可能である」という命題は真でしょう。
というわけで論理学には、可能性と必然性という新しい演算子を取り入れた方がいいよね、というのが様相論理学です。可能性は◇、必然性は□です。
◇Aは「Aは可能」、□Aは「Aは必然」です。
ちなみに記号の覚え方はシンプルです。
◇は□に比べて不安定な感じがします。机の上にこの♢を置いてみると、コケっと転びそうです。ですので、転ぶ可能性があるとおぼえます。それにくらべて、必然の□は安定しています。転ばないだけの必然性があります、と覚えます。いや、そんな覚え方なくても覚えられます!という人は読み飛ばしてください。僕らは少ない(脳の)メモリを使いまわして生きていますので(^^)
で、様相論理学ですが、命題論理学や述語論理学で記号論理学を鍛えあげてから参入しているので、記号の操作という点での統語論(Syntax)は猛烈に進化しました。公理系もいくつも乱立し、レモンさんが大枠で分類したほどです(レモン・コード)。
しかし、肝心のそれらの公理系に対応するSemanticがぼんやりとしていました。
そこに直観主義論理と新しい可能世界論を引き連れた高校生のクリプキ様が殴りこみをかけ、群雄割拠であった様相論理学を平定したというわけです。
クリプキ様が何をしたのかと言えば、統語論だけが発達した様相論理学に対して、可能世界(Possible-world semantics)という意味論を提示し、様相論理学に意味を与えた(という表現が適切かともかくとして)ばかりか、統語論とその可能世界意味論との対応付けがもれなく行われることを示して、様相論理学の完全性を示したのです。
じゃあ、可能世界って何?
名指しと必然性って何という議論はこれまでも繰り返したので割愛しますが(上記も繰り返しですが)、クリプキ様も哲学の歴史や論理学、言語学、数学の歴史の中に位置付けると理解がしやすいのではないかと思います。*ブログ内検索で「クリプキ」で検索していただければ当該記事に飛ぶと思います。
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