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Channel: 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ
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イエスは「そこにはそもそも神はいない」と律法主義に言った(のか?)

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寺子屋の「イエスの語る聖書学」の板書写真を昨晩、公開したので、聖書学についてブログを書こうと思ったのですが、引用したいと思った八木誠一先生の本が見当たらず、本棚に見つからないときは、Amazonの本棚から取り寄せるのですが、本棚から運ばれてくる24時間を待つ心の余裕がないので、今日は脳という最も劣化しやすい外部メモリから引き出しながら書きます(ちなみに以下の引用は手元の書籍からです。探していたのはNHKブックスの「イエスと現代」です)。

「イエスの語る聖書学」のコンテンツについてはこれまでも何度か書いてきていますし、またそこに屋上屋を架しても仕方ないかなと思っています。

八木誠一先生の引用を使いながら示したいと思ったのはイエスの「そこに神はいないんだよ」という叫びです。律法主義者たちが律法によって義とされると考え、愛とは何か、隣人とは誰のことか、安息日とは何か、祈りとは信仰とは何かを考えているその場所には神はいないということです。
「彼らは律法を何か誤解している」とイエスは考えたと思います。だからこそ「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(マタイ5:17)という昨日のブログでも紹介した言葉となります。

律法を無機的なルールの体系であり、公理系であると考えるならば、その世界には(その世界解釈においては)「神はいない」のです。「神」に重要性があまり無い現代の我々に響くように言い換えるならば、そこに「愛」も「自由」も「生」も無いということです。
(皮肉なことにだからこそ不完全性定理は神の不在証明になります。これは実はトートロジーということです。閉じた公理系の中に神がいる座はそもそも無いということです。これは2つの意味があり、第一に神を全知全能という少なくとも完全情報だと夢想したということが誤りということ、そして第二に世界を決定論的な閉じた公理系だと考えたことが間違いといことです。ニュートンもプリンキピアマテマティカにおいてその名のとおり、数学原理について語っているのであって、宇宙の原理については語っていません。厳密に言えば神について語っています。神は数学を用いて自分のすることを決めるというのがニュートンのアイデアです。だから神の御業は予測でき、天体の運行も予測可能です)。

律法学者や律法主義者を痛烈に批判し、かつ律法に対する倒錯をいましめている箇所は多くあります。たとえばこんな衝突がありました。

(引用開始)

ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。
すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。

(引用終了)

安息日に労働をしていはいけないという律法に反したとパリサイ人は批判します。

これに対してイエスはまた律法(我々の言う旧約聖書)を用いて反論します。

(引用開始)

そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。
すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
(以上マルコ2:23-28)
(引用終了)

僕はしばしば『赤信号は人のためにあるもので、人が赤信号のためにあるのではない』と読み替えてしまいます(冗談です。交通法規は遵守しましょう)。

八木先生はマルコ2章28節を引かれた上でこう書かれます。

(引用開始)

 安息日は人間のためにできたのであって、人間あ安息日のためにできたのではない(マルコ2・27)


 この言葉には深い意味がある。しかしここでさしあたり明らかなことは、律法を守ること自身が大切なのだという律法主義者は、ある倒錯を含んでいるちうことである。律法は人間同士の出会いの基準的な形を示しているのに、人間同士の出会いそのものより律法を守ることの方が大切になり、ひいては他者も律法も、自分が律法的完全に達するための手段となるという倒錯である。
(八木誠一 「宗教とは何か」pp.168-169

(引用終了)

律法主義者は倒錯している、もしくは本末転倒になっているということかと思います。
我々は交通法規を守るために生まれてきたのでも、完全な遵法精神を体現するために生まれてきたのでもなく、そのために他者や法律があるわけではありません(わかりやすさのためのジョークです)。人間同士の出会いの基準的な形としてそのようなルールがあるということです。

パウロはより激しく、より明解に述べています。
(しかしこの激しさと分かりやすさは諸刃の剣で、誤解を生む土壌になっているようにも思います。それはパウロの問題というより受け手の問題ではもちろんありますが)

パウロは、律法によって義とされない言います。むしろ律法によって罪の自覚が生じると切って捨て、人が神の前で義とされるのは信仰によると言います。ただ信仰ゆえに律法を無効にするのではなく、信仰によって律法を確立すると言います(これはイエスの律法を廃するのではなく完成させに来たに通じるものがあります)。

(引用開始)

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。(ロマ書3:20)

わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。(ロマ書3:28)

すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。(ロマ書3:31)


(引用終了)

神学や聖書学を学ばれている方々や研究されている方々は、ゲーデルの不完全性定理など百も承知です。ではなぜ否定された「神」を研究しているのか、バチカンは何をしているのか?
僕自身はアップデートされた「神」、そもそもイエスが見ていた神を研究しているのだと思います。それは「言葉」であり、「愛」であり、「律法」であり、「自由」であり、人と人の関係という意味での神です。完全性とは無縁な神です。間違うし、誤るし、怒るし、妬む愛すべき神々です(いや、ちょっと違います。それは神話学ですね。真面目な話、聖書学は仏教哲学と似て「関係」「縁起」を「汎神」という文脈で考察していると考えます)。

そんなわけで(どんなわけだ!)、次回はギリシャの神々にせまります!お楽しみに!

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【書籍紹介】
この「宗教とは何か」は八木誠一先生の講義での教科書でした。
宗教とは何か―現代思想から宗教へ/法蔵館

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増補 イエスと現代 (平凡社ライブラリー)/平凡社

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