「もし愛がなければ、私は無に等しい」とはどういうことなのでしょう。
どういう意味なのでしょう。
これを逆から言えば、「誰かを愛するとは神様のおそばにいること」でしょう。
レ・ミゼラブル(僕は「ああ無情」のほうがしっくりきます)の最後の曲の有名な一節です。
本日の寺子屋「イエスの聖書学」のテーマでもあります。
*1分10秒くらいから♬
*本当に良い映画でした〜(T_T)号泣必至
(引用開始)
And remember
The truth that once was spoken
To love another person
Is to see the face of God.
それから、こう言われていたことを忘れないでね
誰かを愛するということは、神様のそばにいることなの
(引用終了)
新約聖書は旧約聖書の理解が必要であり、旧約聖書は(キリスト教の文脈で読むならば)新約聖書が必要なのです。
旧約聖書と新約聖書は二匹のウロボロスの蛇のようにお互いが相手の尾を食みながら絡み合っています。
ただ旧約から新約へと神が移動したときに、大きな変化が起こります。
旧約の神は妬む神であり、そして契約の神でした。
新約の神は無条件の愛の神です。すなわち契約の破棄、契約によって愛を担保するのではなく、契約なしにも良きことをしてくださるのが新約聖書の神です。
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。(マタイ5:45)
とすると、神は不要となるのです。
ニーチェは我々が神を殺したと言いましたが、その最初の人はイエス・キリストであったということです。
ユングの理解で言えば、神は人を経験しようと思い、受肉して、そして磔に会い、神の不在の痛みを身をもって知り(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)、そしてマトリックスのエージェント・スミスのように宇宙の細部に宿る存在になったということです(半ばジョークなので、さらっと流してください)。
*ユング
これがイエスと親鸞が通じるところです。
阿彌陀佛を無限遠にしたように、イエスも神を無限遠にすることで、消去可能になり、縁起だけが残るのです。
そしてその縁起、もしくは関係の中にこそ、逆説的に神があらわれるのです。
「神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされる」のです。
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(ヨハネの第一の手紙4章12節)
*というわけで今日は重い十字架を背負いましょう。そしてそれが重ければ重いほど、我々は自由になれます。
*もっと詳しく知りたいときは、過去記事を!