何かが分かるということは、「分かって嬉しい」「長年の悩みが解決してスッキリ」ということがある一方で、その解けた謎が次の謎を呼びます。
謎の解決がまた次の謎を呼び、強い光が大きな闇を呼び寄せます。
「分かる」というのは、「分ける」であり、分けたあとに、また分割すべき存在に気付きます。この作業は永遠に終わりませんし(いや、人生と共に終わりを告げますが)、この「分ける」瞬間の喜び、「分かる」瞬間の喜びのみが重要です。その一瞬のために我々は生きていますし、それまでの長い時間の苦闘こそが、一瞬を輝かせてくれます。その意味で苦闘もまた一瞬の喜びを引き立たせてくれます。その苦闘と理解した瞬間の喜びを俯瞰して見れば、この両者はコインの裏表でしかないことが分かります。そうすれば苦闘のすべての瞬間が喜びに通じており、喜びであることが見えてきます。
いずれにせよ、「一にも二にも勉強です」。そして十分な力を持ったヒーラーはそれを社会に向けて還元することで、学びは加速します。
生半可な者が仕事をすれば有害です、十分に学び、十分に力がある者が仕事をしないのもまた宝の持ち腐れという以上に社会にとっては問題です。働きつつ学びましょう!
先日のプシュケーを中心としてスクール修了生からのご質問です。
真剣に学び、真剣に実践すると様々な疑問が生じます。その疑問を抱きながら、引き続き疾走するとふと氷解する瞬間が訪れます。たくさんの「質問」を抱きながら、役割を果たしてください。
(引用開始)
質問、たくさんあります。
お聞きしたいことだらけです。
クンバカは人によって認識が違うのでしょうか?
先生は「息が止まる(止める、ではないですよね?)」と仰ってました。
中村天風は「肛門をしめる、水がたっぷり入った壷のイメージ」
ヨガ講習会では「吸うときは骨盤底筋群、吐くときは腹部の上部をしめる」(だったと思います)
どのように理解すればよいでしょうか
それから合気道の方から聞いたのですが、気を練っていくと丹田の気が小さくなって最後は消える
(消えるまで練る)とのことですが、これはどういうことなのでしょうか
(引用終了)
クンバカは人によって認識が違うかのかというご質問です。
ある概念が人によって認識が違うことは通常のことです。また同じ人の中でも変わります。
リンゴというありふれた一般名詞を考えても、それがニュートンと結び付けられると万有引力を想起し、青森だったら「つがる」というリンゴの品種を想起し、コンピュータだったらJobsを想起し、聖書ならアダムとイブを想起するでしょう。認識は全く異なります。
また一方で全く同じものであっても、異なる表現を取る場合があります。たとえば言語が異なれば、四足でワンと吠える哺乳類が目の前にいたとして、ある人はそれを「犬」と呼び、ある人は「Dog」と呼ぶかもしれません。
もしくは、ある同じものを記述するときにたとえば円筒状のコップを観た時のことを考えましょう。射影幾何学などを持ちださなくても、ある人は真横から見てそのコップを長方形と見做し、ある人は真上から見て真円だと思うでしょう。ある人は斜めから見て長方形に似て上と下が曲線を描いていると考えるでしょう。
クンバカに関するこのご質問はどちらかと言えばこの最後の射影の例に近いように感じます。
すなわち同じものを記述しているにもかかわらず、異なる視点から観ているために(もしくは説明しているために)違ったように感じるということです。
整理していきますが、「まといのば」ではクンバカは息を止めるというより、むしろ集中によって「息が止まる」現象にフォーカスしています。たとえば、実験をしてもらえば分かりますが、何かに大変集中すると息は勝手に止まります。
たとえば、針に糸を通してみましょう。針に糸を通すところをリアルに想像してもOKです。金持ちが天国へ行くよりは、ラクダが通過するほうが楽だそうですが、糸は比較的楽に通るでしょう。しかし息は止まります。
瞑想も同様です。息を吐いて、吸ってをくり返すうちに(繰り返していないときはもう死んでますが)、その境目でクンバカをしていることに気付きます。
ですので、クンバカはまず息を止めることとというよりは、息が止まることと認識したほうがおそらく良いと思います。止めると考えると力みが入ります。止まると考えると自分を丁寧に観察するようになります。
中村天風先生の言い方はバレエにも通じます。肛門をしめるとはバレエでも多用されますが、その意図は骨盤底筋群をゆるめて、そこから息を吸い上げるイメージです。これは気功でも使います。
たとえば、ワキをゆるめて、ワキで呼吸をするようにすると中丹田がつくられます。同様に下丹田の場合は骨盤底筋群から息を吸い上げます(同様に足裏からも)。
また「水がたっぷり入った壷のイメージ」というのは腹腔全体をバルーンにする感覚に近いものを感じます。2期気功師養成スクールでは、クンバカとバルーンを合わせてワークしました。
ヨガで吸うときは骨盤底筋群というのは妥当だと思いますし、吐く時の意識はいろいろで良いですが(基本的には、吐きながらゆるめるで十分かと思います)、腹部の上部である横隔膜を意識することは呼吸において重要です。
合気道に関しては、先生か聞いた生徒が間違えたのでしょうが、臍下(せいか)の一点を2分の1、2分の1と小さくしていくことがポイントです(これを指導した藤平光一先生の師匠は中村天風氏)。たしかに無限に分割していけば消えてしまうのが数学的な理屈ですが、消すことがポイントではありません(多分)。そのダイナミックに分割されていく様がポイントかと考えます。
ちなみに「まといのば」では丹田は大きさも重量も形も存在するものとして扱います。臍下の一点はその意味で非常にチャクラ的です。
臍下の一点はクンバカとは無関係でしょうが、基本的にはどの身体の使い方も対機説法でしかなく、その場や人にあわせた物言いです。どれが正しいのではなく、同じ現象を別な視点から観ただけと言えるように感じます。ただ明らかな誤認自体は注意深く避けていくべきかと考えます。
【書籍紹介】
藤平先生の著書を紹介するのはずいぶんと久しぶりな気がします。
鉄砲の名人と、鉄砲を避ける名人を対峙させたというリアルたてほこの話はこちらの書籍達の中に書いてあったような気がします。
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クンバカは人によって認識が違うのでしょうか?
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